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Cynthia Street 2008年10月の伝言板

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明日が勝負かな? 投稿者:betti  投稿日:2008年10月31日(金)10時41分4秒
『たんだん』での「春の予感」。双子の1人が、歌をやめて、
介護福祉士になるために京都の大学へきて、祇園町の難しさを知り、
色々あって…。明日でしょうね、勝負どころは。

京都も今は色づく街(になりかけ)。もう抹茶パフェの季節も過ぎ、
こってりラーメンが人恋しくなるこの頃。でも、あのラーメンは、
元バイトとして、自分に齢を感じます(苦笑)。

まぁ、ともかく明日が楽しみです。どんな展開で、流れるのかが。
松田聖子~松任谷由美⇒シンシアになればいいのだけど…。

朝の連続テレビ小説『だんだん』に「春の予感」 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月31日(金)01時33分59秒
 NHKの朝の連続テレビ小説『だんだん』、双子の女の子の
物語です。

 毎週サブタイトルがあり、1970~80年代の歌謡曲の曲名が
付けられています。今週(月~土・10/26-11/1)のサブタイトルは、
「春の予感」です。

 ただ、サブタイトルが付いていても、その曲が流れるとは
限りません(たぶん)。流れても、本人の歌でなく、劇中の
登場人物が歌っています。

 http://www9.nhk.or.jp/asadora/
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『だんだん』第5週サブタイトル一覧 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月31日(金)01時30分29秒
各週のサブタイトルは、歌謡曲の曲名になっています。
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『だんだん』第5週タイトル 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月31日(金)00時55分55秒
『だんだん』第5週のサブタイトルは、「春の予感」
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『ザ!世界仰天ニュース』08.10.29 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月30日(木)09時37分40秒
『ザ!世界仰天ニュース』2008年10月29日

 『ザ!世界仰天ニュース』は、日本テレビで毎週水曜日21時からの
1時間番組です。司会は、笑福亭鶴瓶さんと中居正広さんです。

 この番組には、輝信さんは、前回初出場で9月3日の回に出ています。
この番組は、海外のドキュメンタリーをみんなで見ながら、時々司会者と
ゲストがやり取りするような内容です。

 前回は、「奇跡の出産スペシャル」で、ゲストは、田中美奈子さん、
佐藤弘道さん、坂下千里子さん、篠山輝信さん、優木まおみさんでした。

 今回は、DNAスペシャルで、「実在した天才製造工場」「人類を
救うスーパー遺伝子の正体」が放送されました。

 今回のゲストは次の通りです。今回は有名人の二世がゲストです。
紹介された順に書きますと。

 逸見えみり(父:西郷輝彦、母:逸見マリ)
 美勇士(父:桑田正博、母:アン・ルイス)
 篠山輝信(父:篠山紀信、母:南沙織)
 LUNA(父:Mr.マリック)
 鈴木佑季(父:ガッツ石松)

 この番組、ゲストの紹介は少なくて、大体一人一回のコメントで
終わります。

 前回は、シンシアの事を聞かれて輝信さん、「家では、料理する時、
自分の歌を歌いながら料理しています」とか言っていました。

 今回は、紀信さんのことを聞かれています。紀信さんが息子に
気を利かせて、撮影したアイドルのサイン入りの生ポラロイド写真を
もらってくるそうです。

 浜崎あゆみさん、深田恭子さん、広末涼子さんなどの名を
上げていました。どれにも「輝信君へ」と書かれているそうです。

 このコメントの後、司会者がえみりちゃんに「(紀信さんに)
撮られたことある?」と振りました。えみりちゃん、「何回も
ありますよ。この間も飲みました」と言ったら、輝信さん驚いて
います。

 紀信さんと年が離れている事もありますが、輝信さん、家でも
気軽に父に接しにくいそうです。敬語つかったりする事もある
そうです。ちょっとえみりちゃんが羨ましそうでした。

 コメントしてはこれだけでしたが、ほかにえみりちゃんに
面白い話が。ご両親は、えみりちゃんが赤ちゃんの時に別れて
母と暮らしました。

 お母さんが父の事は、「西のつく歌手の人」としか言わなかった
そうです。それで、小学校1年位の時まで、私の父は西城秀樹さん
だと思っていたそうです。

 ザ!世界仰天ニュース:http://www.ntv.co.jp/gyoten/index1.html

『ザ!世界仰天ニュース』08.10.29-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月29日(水)23時11分57秒
『ザ!世界仰天ニュース』2008年10月29日放送
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『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』写真 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月26日(日)10時15分0秒
 本にはよく帯が付いています。普通は細いものですが、この本の場合、
写真右にあるように、帯が本の八割ほどの長さのものです。文中の写真は
白黒で、各章の冒頭に見開きで1枚のみ載っています。本の中身は文字
ばかり、社会派の内容でとても面白いです。シンシア以外の沖縄出身の
アイドルについてもよく書かれています。
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『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)23時34分28秒
 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史
-オキナワ ダレニモカカレタクナカッタセンゴシ』

 先月発売された沖縄関係の本の紹介です。月刊『PLAYBOY』
誌上に連載された記事が単行本になりました。全5章からなり648
ページ、厚さが4.5cmもあります。

 1.天皇・米軍・沖縄県警(P15~112)
 2.沖縄アンダーグラウンド(P113~274)
 3.沖縄の怪人・猛女・パワーエリート(P275~524)
 4.踊る琉球、歌う沖縄(P525~598)
 5.今日の沖縄・明日の沖縄(P599~639)

 著者:佐野眞一
 ISBNコード:978-4-7976-7185-8
 判型/総ページ数:四六判ハード/648ページ
 発売年月日:2008年9月26日

 集英社:http://www.shueisha.co.jp/
 本データ:http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-7976-7185-8&mode=1
 試し読み:http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html
 琉球放送:http://www.rbc-ryukyu.co.jp/
 オキコ:http://www.okiko.net/
 島唄カフェいーやーぐゎー:http://www.ryucom.ne.jp/users/iyagwa/

『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)23時32分4秒
 この本の第4章には、何回かシンシアの事が書かれた箇所が
あります。少し抜書きしますと。これ以外にも593ページに
バーニングプロに言及した箇所があります。

【P531】
 もう少し下の世代ならば、本土復帰一年前の1971年、長い
黒髪をなびかせてデビュー曲の「17才」を初々しく歌う南沙織と
いう、よく日焼けした健康的な肌と濃い眉が印象的な南国生まれの
美少女に、たぶん心ときめかせたことだろう。

 子どもの頃からシンシアというニックネームで近所のアイドル
だった彼女は、1967年にスタートした琉球放送の素人のど自慢
番組『オキコワンワンチャンネル』のアシスタントを13歳で
つとめたことが、芸能界にデビューするそもそものきっかけだった。
オキコとは、この番組のスポンサーとなった沖縄の菓子・食品
メーカーの社名である。

 いまは結婚して本名の内間明美から篠山シンシアと名前が変わった
彼女は、「『オキコワンワンチャンネル』は、人生の大きなチャンスを
与えてくれました。出演料は一回5ドルでした」という回想を
『琉球放送50年史』に寄稿している。

【P546~550】
 那覇市の与儀(よぎ)公園は、ソメイヨシノより一足先に咲く
寒緋(かんぴ)桜の並木で有名である。ニュースが毎年「沖縄で
全国初の花見」と伝えるのが、この公園です。

 その公園に近い寄宮(よせみや)に「いーやーぐゎー」という店が
ある。“いーやーぐゎー”とは、この店の経営者の実家の屋号と
沖縄方言で“酔っぱらい”をかけた名前だが、“カフェ”を
名乗るように、民謡居酒屋とは一味違う雰囲気の洒落た店である。

 ここでは定期的に島唄のライブショーが行われ、店内には
嘉手苅林昌(かでかるりんしょう)など名だたる唄者(うたしゃ)の
大きな肖像写真や、竹中労が若い頃の大島渚と一緒に写った
スナップも飾られている。店主の小浜司(こはまつかさ)は、
沖縄の芸能を語るとき欠かすことのできない人物である。

 竹中労の遺作となった『エスクァイア日本版』の琉球特集号
(1991年8月号)では、竹中の現地アシスタントをつとめ、
嘉手苅林昌や登川誠仁(のぼりかわせいじん)の人物論も書いている。

 赤い手拭をターバンのように巻き、でっぷりと太った小浜は
なかなかの貫禄だが、インタビューで話題に出た南沙織のことを
「近所の娘さん」と言っていることから考えて、年齢は彼女と
ほぼ同じ年恰好の五十代前半だろう。

 (中略)

-いいようにいじられている。
 「そうそう、そういう感じです。やっぱり、沖縄の独自性とか
地域性は届かないのかと思った」

-でも、復帰前にデビューした南沙織は届いたじゃないですか。
ウチナンチューとしては南沙織をどう見ていたんですか。あれは
違うぜ、という感じだったんですか。
 「僕は彼女が生まれた(宜野湾の)近所でしたからね。近所の
娘さんが沖縄のテレビにアシスタントで出て、あっという間に
大スターになっちゃた、という感じで、あっけにとられたと
いうのが正直なところでしたね。ただ、力はあったと思いますよ、
南沙織は」

-力というと?
 「やっぱり歌唱力と、芸能者としての華の部分ですね」

 確かに南沙織には華と、沖縄を実感させる存在感があった。
沖縄の本土復帰三日前に突然芸能界を引退するという宣言騒動も、
マスコミの注目を集め、彼女の人気に拍車をかける結果となった。
彼女の人気は沖縄復帰ブームとも相俟って頂点に達し、
モーツァルト以外は聴きそうにないあのうるさ型の大岡昇平まで
対談に馳せ参じ、手放しでのろけている。

【P596・597】
 周防郁雄(すほういくお)が沖縄に注目しているのは、何度も
いうように、この島が芸能の宝庫だからである。元りんけんバンドの
メンバーで、ボードビルグループの「笑築過激団」を結成し、
沖縄市民小劇場“あしびなー”の芸術監督をつとめる玉城満
(たまきみつる)によれば、沖縄には芸でメシを食っている人間が、
ざっと五百人はいるだろうという。

 「沖縄の結婚式を見ればわかります。出席者全員がセミプロの
芸人(笑)。プロ芸の芸域も広く、戦争中南の酋長から教わったと
いって、体じゅう墨を塗りたくって“オー、オー”と叫びながら
踊るだけの芸で六十年以上もやっている怪芸人もいます(笑)」

 全島で五百人以上の芸人とは大変な数字である。例えば茨城県で
芸だけでメシをくっている芸人は、多くても五十人はいないだろう。
沖縄はやはり日本の島ではなく、別の国である。

 最後に、たわむれに私の戦後沖縄エンターテイナーのベスト10を
あげておきたい。

 1.エイサー(沖縄ソウルミュージック&ダンスの原点)
 2.瀬長亀次郎(風雪の面構えと魂を揺さぶる演説)
 3.南沙織(沖縄本土復帰の女神)
 4.安室奈美恵(天賦の野生と南島のエロチシズム)
 5.普久原朝喜(ふくばるちょうき)(島唄を復活させた功績)
 6.嘉手苅林昌(神の爪弾きの飄乎(ひょうこ))
 7.小那覇舞天(おなはぶーでん)(沖縄方言自由自在)
 8.登川誠仁(沖縄のジミ・ヘンドリックス)
 9.喜納昌吉(きなしょうきち)&チャンプルーズ(ハイサイおじさんの風狂)
 10.ネイネーズ(女性ボーカルの哀切)

 番外としては、コザ生まれのハードロックグループの紫、
美貌の歌姫・喜屋武(きやん)マリー(現・MARIE)、
沖縄ジャズの大御所の与世山(よせやま)澄子、“おばあ”
ブームに火をつけた平良(たいら)とみを挙げておこう。

-2008.12.7(日)追記-
 私が見落としていた箇所を投稿していただきました。下に貼り付けます。

沖縄だれにも書かれたくなかった沖縄戦後史
投稿者:海田  投稿日:2008年12月05日(金)10時55分32秒

 以前、トナカイさんから紹介がありました佐野眞一さんの本ですが、
早速取り寄せて読んでいたところ、シンシアの記事を発見しましたので、
私もトナカイさんにならって抜き書きしたいと思います。

【P108】
 最初、車を使った雑貨の移動販売は、店を構えてデリカテッセン
(惣菜)を扱うようになり、ジミーの店の手づくりアップルパイは
やがて沖縄に欠かせない味と評判になった。業績は順調に伸び、
ジミーベーカリーは、いまや戦後沖縄の一つの食文化を代表する
シンボル的存在にまでなっている。
 思わぬ付加価値もジミーベーカリーのブランド化に一役買った。
ジミーの店の近所には芸能界入りする前の南沙織が住んでおり、
愛称シンシアの彼女がハイスクール時代よく通った店だった。
この話は、南沙織フリークの間では神格化されたエピソードとして
都市伝説化している。

 ジミーの店の手づくりアップルパイ。すいません。知りません
でした。フリーク失格だ。

『昭和お宝大図鑑』 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)18時28分0秒
『昭和お宝大図鑑』
コスミック出版
2008年11月18日発行
2008年10月18日発売
A4変形版112ページ
http://www.cosmicpub.jp/shopdetail/003004000040/order/
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『昭和お宝大図鑑』-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)18時05分23秒
『昭和お宝大図鑑』-2
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『昭和お宝大図鑑』-3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)17時58分4秒
『昭和お宝大図鑑』-3

 こんな感じで、全頁さまざま品が写っています。おもちゃ、マンガ、
アイドル、雑誌・書籍、レコード、映画、生活全般、とジャンルが別れ、
その中で細分化されています。

 P36・37
 アイドル-70~80年代アイドル黄金時代!-

 昔のアイドルはビジュアルだけでなく歌がうまかった。曲もよかった。
スタ誕に夕ニャン、熱狂的なファンや親衛隊として追っかけしていた、
あの頃の青春時代を思い返してみたい!
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『昭和お宝大図鑑』-4 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)17時37分56秒
『昭和お宝大図鑑』-4

 P37
 沖縄生まれの沖縄育ち、愛称はシンシア。後に森高千里がカバー。
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『昭和お宝大図鑑』-5 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)17時28分23秒
『昭和お宝大図鑑』-5

 P36
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『昭和お宝大図鑑』-6 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)17時24分19秒
『昭和お宝大図鑑』-6

 P36
 「元祖アイドルは南?奥村?今やアイドルも歴史の一部」

 アイドルという呼称が生まれたのは、70年代初頭からだ。
それ以前の60年代は、アイドルとは外国人若手女性歌手のことを
呼んでいた。そのアイドルと呼ばれた初の日本人歌手は、南沙織だと
言われるが、65年にデビューした奥村チヨだという説もある。

 南説は71年、彼女が紅白歌合戦に登場した際、司会が「ティーンの
アイドル」と紹介されたことから。また奥村説は、女性歌手のなかで
いち早く、当時流行しだしたGSサウンドと、ミニスカを取り入れた
からだそう。

 それ以降、天地真理や麻丘めぐみなど、女性芸能人がアイドルと
呼ばれるようになり、70年代後半になるとジャニーズ系など、
男性芸能人もアイドルと呼ばれ出す。

 こんなアイドルたちの、黄金期と呼ばれているのが80年代だ。
この時期デビューした松田聖子、中森明菜、斉藤由貴、小泉今日子、
南野陽子、工藤静香などは、今でも第一線で活躍している。
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『昭和お宝大図鑑』-7 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月25日(土)17時16分10秒
『昭和お宝大図鑑』-7

 P41左下には『GORO』の写真が。右側のハレーションを
起こしている表紙もアグネス・ラムです。
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『田舎に泊まろう!』081019 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時49分24秒
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田舎に泊まろう!
2008年10月19日(日)

今回のゲストが、篠山輝信さんでした。番組では「南沙織」の名前は
出ましたが、曲などは流れませんでした。

『田舎に泊まろう!』081019-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時48分22秒
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『田舎に泊まろう!』081019-3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時47分12秒
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『田舎に泊まろう!』081019-4 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時46分1秒
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『田舎に泊まろう!』081019-5 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時44分29秒
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 最初の場面は、レコード店でLPレコードを手に撮る輝信さんです。
「人恋しくて」を手に取る店は、高円寺の「ゴーゴーレコード」店です。
次の場面の左下に出る「THE55」は店のマークです。

 http://www.gogorec.com/
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『田舎に泊まろう!』081019-6 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時42分41秒
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『田舎に泊まろう!』081019-7 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時41分28秒
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『田舎に泊まろう!』081019-8 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時39分50秒
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 ナレーターが、「写真家・篠山紀信と南沙織の次男、輝信」と
紹介しています。
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『田舎に泊まろう!』081019-9 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時38分26秒
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『田舎に泊まろう!』081019-10 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時37分2秒
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 スタッフが「お母さんは、どんな料理を作ってくれるの」とか聞きます。
輝信さんが「ミートソースなど、最初から作ってくれる」と言っています。
ひき肉や玉ねぎなど素材から料理するという意味です。
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『田舎に泊まろう!』081019-11 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時35分41秒
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『田舎に泊まろう!』081019-12 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時31分24秒
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『田舎に泊まろう!』081019-13 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時28分39秒
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『田舎に泊まろう!』081019-14 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時23分37秒
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『田舎に泊まろう!』081019-15 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時19分46秒
15/17

 この番組はゲストの希望の場所を、スタッフが探してその場所の
郵便番号の札を渡します。次の場面は、その場所を歩いて、宿を
探すという趣向です。

 今回の場所は福井県大野市稲城地区です。内陸ののどかな農村です。
東京生まれ東京育ちの輝信さん、自然いっぱいの場所に喜んでいました。

 途中、栗が自生しているのを見て、「栗ご飯大好き」と言っています。
秋には、シンシアが栗ご飯を作っているんですね。
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『田舎に泊まろう!』081019-16 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時15分43秒
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『田舎に泊まろう!』081019-17 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月21日(火)09時13分32秒
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 大野市稲城地区を歩いた輝信さん、最初、畑仕事をするおばちゃんに
話しかけ、蒸したサツマイモをご馳走になり、おばちゃんの家に行き、
サトイモの煮っ転がしを作ってもらいます。この場面が3/17です。

 宿泊交渉をしますがダメでした。さらに歩いていて、ある家で交渉
します。最近はこの番組も知られていて、あちらから言われたのが。

 「“田舎に泊まろう”のマネ?」

 あの番組をマネしている人と思われました。誤解も解けて本物だと
わかって、その家のおばあちゃんの家に泊めてもらえました。

 その家のお嫁さんにおばあちゃんが「南沙織の息子」と紹介しています。

 14/17で「サスペンス民泊」とあるのは、この家の一人息子さんが
ちょっと引きこもりで、茶髪で見た目が怖そうだったからです。でも
優しい青年で、最後は輝信さんと仲良くなっています。

 この番組では、泊めて貰った翌日に「一宿一飯の恩義」で恩返しを
します。たまたま当日が地区の運動会で、お父さんが運動会の役員
だったので、車に乗ってアナウンスをしています。

 他に、息子さんと一緒に木材で、おばあちゃんのために腰掛の椅子を
作ってプレゼントしています。
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『田舎に泊まろう!』を見て 投稿者:ヨシムラ  投稿日:2008年10月19日(日)19時47分18秒
トナカイさんのおかげで、さっき南沙織の名前をTVで聞く事が
出来ました。篠山輝信君出演番組です。トナカイさんのシンシア
ファン度には、感嘆してます。掲示板楽しみにしてます。
ありがとう。

あかもものエースが出てこない 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月18日(土)00時08分35秒
 『秘密のケンミンショー』、日本テレビで毎週金曜日21時
からの1時間番組です。今日の放送では、次のような話が。

 「山形県民は、ハートを“あかもも”と呼びます」

 山形では、ハートをあかもも、スペードをくろももと呼ぶのが
普通だそうです。司会者が、「じゃあ、“ハートのエースが出て
こない”はどう思っていたの」と聞いていました。この時、
キャンディーズの歌が流れています。

 ゲストが20歳ほどの若い娘で、歌を知らないのか、「私は
ハートがあかももの事だとここで知りました」とか言っていて、
うやむやの内に次の話題に移りました。

 http://www.ytv.co.jp/kenmin_show/
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来週日曜の『田舎に泊まろう!』に輝信さん 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月16日(木)00時57分38秒
 テレビ東京の日曜日19時からの1時間番組『田舎に泊まろう!』の
19日の放送に輝信さんが出ます。この番組、出演者が色々個人的な
話をしゃべるので楽しみです。

 http://www.tv-tokyo.co.jp/inaka/
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『シルシルミチル』に輝信さん 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月16日(木)00時20分55秒
 先週から始まった『シルシルミチル』、テレビ朝日で毎週水曜日
23:15からの55分番組です。今週のゲストが輝信さんでした。

 青い鳥のチルチルミチルをもじった番組タイトルです。偶然かも
しれませんが、輝信さん、水色のシャツを着ていました。

 この番組は、最近流行の雑学披露の番組で、ゲストに対するクイズとか
なくて、ゲストは時々感想を言うだけです。

 本人の紹介はなくて、番組の冒頭で、お父さんの紀信さんの事を
聞かれています。紀信さん、家族の写真はほとんど撮らずに、家族の
集合写真も撮ったこともないそうです。

 回りからお父さんのことを聞かれますが、私(輝信)のほうが、
お父さんのことをほとんど知らないと言っています。お母さんの
話は全く振られませんでした。

 http://www.tv-asahi.co.jp/shirushiru/
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今日は満月(^o^) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月15日(水)23時14分20秒
 今日は快晴、夕方にふと空を見ると、地平線に近い場所に
満月が。惚れ惚れするほどまん丸な満月です。月の中にハッキリ
とウサギが見えました。夜になるにつれて高度を増し煌煌と輝く
満月。

 先日のファンの集いが終わって、半年がかりのビッグ
プロジェクトが終わり、私はとっても満足です。素晴らしい
満月に、心はウキウキです。

哀しい妖精 投稿者:Betti  投稿日:2008年10月15日(水)20時51分9秒
皆様お元気ですか?
京都は、今日は朝もやの中で…。それから晴天。まさに「朝もやの中で」
の気分でした。時間を見つけ『哀しい妖精』のLPを…。でも、この曲、
生で聴いたことがないんですよね。ある意味で一番好きな曲かも
しれない。仕事はそれなりにあったけど、楽しい気分でした。

毎日の気分によって聴けるLPがあるっていいですね。

『東スポエンタメ劇場』2-3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月14日(火)00時50分11秒
P.45の記事のアップです。
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『東スポエンタメ劇場』2-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月14日(火)00時47分55秒
P.43~47がアイドル関係のページになっています。P.45
上段に1971年アイドルの話が載っています。ここのみ載っている
ようです。
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『東スポエンタメ劇場』2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月14日(火)00時42分37秒
東スポエンタメ劇場2昭和偏

http://www.tokyo-sports.co.jp/enta-page/index.html
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副嶋恭子さんチェンバロリサイタル 投稿者:u3  投稿日:2008年10月14日(火)00時40分27秒
副嶋恭子さん(チェンバロ)演奏会 副嶋恭子チェンバロリサイタル のお知らせ

 日時  :2008年12月04日(木)19時開演
 会場  :東京 オペラシティ3階 近江楽堂(東京都新宿区西新宿3-20-2)
 アクセス:京王新線「初台駅」オペラシティ方面出口徒歩3分
 料金  :前売4000円/当日4500円(全席自由)

「17才」の入った『決定盤!! 歌謡ポップスの時代』を買いに行ったら、
難波のタワーレコードでは見あたらず、正確なタイトルを知るために
“INTERGUIDE”(デジタル試聴機)で検索したら、11/24に出る新しい
ベスト盤がヒットしました。『南沙織 スーパー・ベスト』DQCL-1112
\2000、収録曲数・収録曲名等不明。
2009年1月までの限定出荷とのことでした。
と思ったら、2006/07/21に発売済みのものの2か月限定再出荷のようです。
http://www.sonymusicshop.jp/detail.asp?goods=DQCL000001112
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Thank you TONAKAI さん 投稿者:Fan  投稿日:2008年10月12日(日)17時15分43秒
トナカイさん、オフ会ありがとうございました。
お宝も十分たのしみました。

イタリアワイン1978 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月12日(日)00時54分47秒
 シンシアに贈ったワインです。ARGIANOの"Brunello di Montalcino"
(ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ)の1978年物です。

 http://www.argiano.net/en/vini/vini_brunello.htm
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30周年会場602会議室 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月11日(土)15時31分19秒
 2008年10月4日(土)に、南沙織引退30周年ファンの
集いを開きました。シンシアが30年前の10月7日(土)に
引退コンサートを開いた調布の地で開きました。

 京王線調布駅前にある、調布グリーンホールが当時の会場でした。
その隣地に建てられた調布市民会館たづくりで開きました。

 調布駅は1ヶ月前から駅舎全体の地下工事化が始まって、今、
橋上駅の仮駅舎が出来ています。その駅舎の窓から撮った写真です。

 グリーンホールは1977年竣工の建物なので、30年経っても
当時のまま建ってくれています。
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30周年会場602会議室2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月11日(土)15時26分53秒
 「たづくり」の1階には、電光掲示板があり、当日の行事と
会議室が表示されます。

 当日は、602会議室を13時から16時半まで借りていました。
ファンの集いは、13時半から15時半まで開きました。

 会議室はほぼ四角で、定員24名です。机をロの字方にして、
皆で車座になって過ごしました。

 http://www.chofu-culture-community.org/forms/top/top.aspx
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もう1週間か… 投稿者:Betti  投稿日:2008年10月11日(土)14時55分17秒
「楽しい時間は、すぐ過ぎ去っていきます。でもいつか、また
どこかで巡り会えることを信じて」untill then… 分からん(笑)。
明日は、なぜか大原に行きます。同窓会です。ついでに「絹手まり」の
新作を見に行って来よう。多分、今は紅葉が基本だとは思われる。
もし、ご入用でしたら、早急にご連絡を。

大学の3回生の就職活動が始まりだしました。同窓会と銘打って、
就職活動の模擬活動です。まったく見知らぬ人と話をすることって、
学生にとって大切ですよね。こっちとしては、彼らにそれを経験
させたいです。それも「17会」との出会いのおかげです。
ありがとう

30周年記念お宝披露 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月11日(土)13時16分21秒
 10月4日(土)のファンの集い、私の個人所有のお宝をお披露目
しました。会議室の壁にマグネットなどで貼りました。中央が
『シンシア・アンソロジー』のポスターです。その左右に、
不二家ジョアのポスター。

 右下の白いハンカチは、シンシアのサインが書かれています。
壁の左端がシンシアのサイン柄の浴衣(ゆかた)です。

 『シンシア・アンソロジー』のポスターは、駅などに張り出された
のと同じ品です。ネットオークションで落札したものです。
ためし刷り(らしい)が出品されたもので、まったくの新品です。
回りをマグネットテープで留めています。

 当日は、この日のために用意した特製瓦せんべいを出しました。
お茶は、勿論、「茶織」のペットボトルです。近くの店になくて、
人数分そろえるのに時間がかかって、開始時間に間に合いません
でした。出席した方、ごめんなさい。

 一茶織(はじめさおり):http://www.hajime-cha.jp/saori/kimochi/
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30周年記念お宝披露2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月11日(土)13時07分40秒
 浴衣の由来を説明します。いつ作られたのかは知りません。
引退コンサートの1週間前、1978年10月1日(日)に、
赤坂プリンスホテルで南沙織ファンクラブが、ファンの集いを
開きました。

 400人くらいのファンクラブの会員が集まったと思います。
旧館の4階(かな)の大広間で開かれました。お楽しみ抽選会が
開かれました。クイズ方式で正解の人に賞品が渡されます。
15くらいのシンシアに関係する問題が出たと思います。

 正解者には、シンシアから賞品が渡されました。答えが
わかった人は手を上げての早い者勝ちの方式です。最初の方は、
イントロが流れての曲当てクイズだったと思います。この時、
私が一つの問題に正解しました。

 その時の賞品がこの浴衣でした。シンシアのサインが柄に
なっている浴衣です。右袖にシンシアにサインをいただいています。
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30周年記念お宝披露3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月11日(土)13時00分45秒
 シンシアの等身大パネルです。1974年3月に発売された
「バラのかげり」の販売促進グッズです。その年の秋に、手に
入れています。当時の品ですので、ベニア板で出来ています。
ずっと部屋の中の光の当たらない場所に置いていました。

 写真がこれしかなくて。下のほうが見えにくいので、左側に
全身像を貼り付けています。当日は、ビデオを見ながら、みんなで
談笑しました。
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『アサヒ芸能』08.10.16号-9 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月10日(金)00時24分4秒
表紙です。

 http://www.tokuma.jp/magazine/weekly-asagei/9031520a30a230b530d282b880fd-10-1653f7
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『アサヒ芸能』08.10.16号-8 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)23時57分14秒
 『週刊アサヒ芸能』2008年10月16日号
 52周年記念ワイド特番“70年代アイドルを「感涙の総直撃」”
 「70年代アイドル」が現役宣言!
 P70~79

 ページ毎の人物(敬称略)
 南沙織=P70・71
 大場久美子=P72
 アグネス・チャン=P72・73
 岡崎友紀=P73・74
 伊藤咲子、林寛子=P74・75
 あべ静江=P76
 高田みずえ、栗田ひろみ=P77
 キャンディーズ、ゴールデンハーフ・エバ=P78
 ヒットチャート20(写真:麻丘めぐみ、ピンクレディー)=79

 特集の冒頭には次のような紹介文が。

 テレビをつければ、そこにはいつも彼女たちのほほえみがあった。
日本に「アイドル」なる言葉が定着した70年代。続々登場する
「一等星」たちが熱くわれわれのハートを打ったものだ。アサ芸
世代がこよなく愛する、そんな時代の至宝が、往年の輝きも
そのままに大終結した!

『アサヒ芸能』08.10.16号-7 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)23時47分53秒
P.79
70年代アイドルヒット曲20
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『アサヒ芸能』08.10.16号-6 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)23時41分3秒
P79アップです。
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『アサヒ芸能』08.10.16号-5 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)23時32分56秒
P.78・79です。
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『アサヒ芸能』08.10.16号-4 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)22時23分49秒
アップ2です。
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『アサヒ芸能』08.10.16号-3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)06時55分14秒
 『週刊アサヒ芸能』2008年10月16日号
 “70年代アイドルを「感涙の総直撃」”
 P.70~79
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『アサヒ芸能』08.10.16号-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)06時49分51秒
アップです。
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『アサヒ芸能』08.10.16号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)06時42分50秒
南沙織-「芸能界に長くいるつもりはなかったけど歌うことには
今も抵抗はありません」-

-沖縄返還を間近に控えた1971年、小麦色の少女は海を渡って
やってきた。瞬く間に日本における「アイドル」の第1号と呼ばれた
彼女の名は、シンシアこと南沙織(54)。長い沈黙を破って本誌に
特別メッセージを寄せてくれた。-

 今でも東京に初めて来た日のことは鮮明に覚えています。沖縄の
テレビ番組でアシスタントのアルバイトをしていた私に、急に
CBSソニー(当時)の方からお声がかかったのです。当時は
本土復帰前でしたから、東京へはパスポートを使って上京しました。
母親と二人で71年の3月も終わるころでしたが、目に入ったのは
東京タワーだけでした。移動の車の中から、ママが「あれが東京
タワーよ」と言ったことで記憶に残ったんです。

 次に来たのはレコーディング、そして3度目の上京がデビューの
日になりました。まだ16歳だった私は、いただいたデビュー曲
「17才」を歌って間もなく、そのタイトルのままに17歳を
迎えました。歌を歌うことはとても好きでしたから、すばらしい
曲をいただいたと今も感謝しています。

 ただ、沖縄での私は英語で話すことが多かったので、日本語の、
というより芸能界特有の言い回しには戸惑いました。例えば
「じゃあ、また今度」って言われると、それが明日なのか
別の日なのか、真剣に悩むことも多くなりました。

 当時は睡眠時間も4時間ほどしかなく、そんなことが重なって
突発的に引退を口にしてしまったこともあります。周りの方の
説得でいったんは取りやめましたが、長くいる世界ではないなと
思ったことは事実です。

-音楽プロデューサーの酒井政利氏は、南のデビューから
現在まで、常にアドバイザーとして支えてきた。一昨年3月、
南が久しぶりに公の場に姿を現したのも、酒井氏の「文化庁
長官表彰・音楽プロデューサー45周年」の席だった。夫で
ある写真家の篠山紀信氏とともに乾杯の音頭を取って、
変わらぬ美貌で周囲を驚かせる。酒井氏は南を、「母性に
みちあふれた人」とも。-

 子供は3人とも男の子で、そろって成人しましたが、
これから社会に出ていくと思うと不安が募ります。次男の
輝信は少し前から俳優の道に進みました。本人が好きな世界
とはいえ、親としてはいつまでたっても心配は尽きません。

 そして私自身は97年を最後にレコーディング等の活動から
遠ざかっていますが、歌うことに抵抗はありません。ただ、
さっきも言いましたように、子供たちの将来が気になって…
というところです。今でもファンの方がフィルムコンサートを
開いてくださったりするのは、心から感謝しています。

(『週刊アサヒ芸能』2008年10月16日号P.70・71)

30年目の調布グリーンホール 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)06時38分36秒
 ホールの碑銘板の上に17会の葉書を立てて見ました。
今回は作りませんでしたが、5年前にも調布でファンの
集いをしたので、その時の葉書です。さよならコンサートの
写真を使っています。
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30年目の調布グリーンホール2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)06時33分23秒
 皆がコンサートホールに向かうために上った階段です。
この日は行事がなく閉まっていました。
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30年目の調布グリーンホール 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月08日(水)06時18分52秒
調布グリーンホール、2008年10月7日午後7時の姿です。
霧雨がわずかに降っています。
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「TBSで」補足 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月07日(火)23時17分36秒
『あなたが聴きたい 歌の4時間スペシャル』
2008年10月7日 火曜日よる6:55から

http://www.tbs.co.jp/program/anatagakikitai_20081007.html

黄色いタートルネックセーターで「17才」を歌う
シンシアの姿が15秒ほど流れました。

TBSで 投稿者:betti  投稿日:2008年10月07日(火)21時07分2秒
「17才」が流れましたね。

瓦せんべい 投稿者:betti  投稿日:2008年10月07日(火)09時58分4秒
あれは、まず眺めて、裏を向けて、手で割って食べるのが一番ですね。
味は美味しいです。というか、歯が悪くても大丈夫です(笑)。

瓦せんべい 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月07日(火)01時07分6秒
 今回、17会で瓦せんべいを作りました。一辺7cm四方で
とっても美味です。
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30年目の10月7日 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月07日(火)00時17分16秒
 シンシアが調布グリーンホールでさよならコンサートを行なって
から30年が経ちました。7年7ヶ月の現役時代の集大成である
さよならコンサートで歓声を上げたのが昨日のようです。

 引退後もシンシアはいつも私達のアイドルであり続けてくれました。
30年間の思い出をありがとうございます。

10月4日30周年ファンの集い 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月05日(日)22時01分28秒
 昨日、調布でシンシア引退30周年を記念したファンの集いを
しました。総勢16名の方に参加いただきました。参加された
すべての皆様、誠にありがとうございました。

 準備に手間取り、一部お見苦しい点もありましたことをお詫びします。

 素晴らしい時間を過ごせて、最高の思い出が出来ました。

ありがとうございました! 投稿者:Shigeru  投稿日:2008年10月05日(日)19時51分39秒
トナカイさんを初め、色々と準備をしていただいた皆様お疲れさまでした!

今年は初めての「ファンの集い」への参加でしたが岐阜から参加した
甲斐がありました。ありがとうございました!

シンシア・ファンでよかった 投稿者:betti  投稿日:2008年10月05日(日)16時59分9秒
本当に楽しかったです。「集い」、少々(?)無理して行って
良かった。
まじめにシンシアを語り合えたこと、正確な情報をえられたこと、
更なる企画が持ち上がったことetc。何より、利害関係のない人
とのつながりが増えたこと。

「17会」を創出者となりうるものにするために次なるプロディース
に、少しでも協力したいと存じます。想い出話はもういいです。

シンシアを利害関係なく語り合える、そして、それぞれの彼女
への価値観を受容するってこと、そのなかで、プロデュース
(「なんかしたい」)したいですね。本当にありがとうございました。

(無題) 投稿者:あいうえお  投稿日:2008年10月04日(土)07時01分30秒
『オール讀物』の文章今回初めて読みました。
長文打ち込むのさぞ大変だったと思います。
有難うございました。
今日の集いが盛会になることお祈りします。

明日、10月4日(土)のお知らせ 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)13時30分21秒
 数日前から金木犀の花が咲いています。例年にない秋らしい
秋が訪れている今日この頃、シンシアファンの皆様、いかが
お過ごしですか。

 いよいよシンシアが調布グリーンホールでさよならコンサートを
行なった10月7日が近づいてきました。

 あの日は土曜日でしたが、今年は火曜日です。明日は土曜日、
都内では二つのシンシアに関係する催しがあります。

1.田山雅充ライブ
 「人恋しくて」など名曲の数々をシンシアに提供してくれた
田山雅充さんのライブが行なわれます。場所は、新宿曙橋の
ライブレストラン「BACK IN TOWN」(通称ビット)です。
19時から行なわれます。当日席あります。

 詳しくは、9月2日の田山プロモートチームさんの投稿を
ご参照下さい。

2.17会ファンの集い
 シンシアの引退30周年を記念してファンが集まろうと
思っています。思い出の地、調布グリーンホール近くの店で
やろうと思っています。明日の13時から16時頃まで開きます。

 私のシンシアコレクションも持って行きます。30年間秘蔵
していた品です。ほかにも集いでは、さまざまなサプライズを
用意しました。

 参加希望の方は、メール下さい。お待ちしています。
トナカイ:Cynthia17s@aol.com

『オール讀物』2006年4月号(1/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)12時05分37秒
 今から2年半前の2006年、月刊誌『オール讀物』にシンシアと
酒井プロデューサーの対談が載りました。このことについては、
2006年3月24日(金)に投稿しています。この後の4月15日
には、古賀ミュージアムでの酒井さんの音楽講座にシンシアが
ゲスト出演しています。

 シンシアが自ら話した内容が雑誌に載ったのは、最近ではこれが
最後です。いよいよ引退30周年(2008.10.7)の日が近づいたので、
この座談会の内容を載せます。

 記事には見出しはありませんが、わかりやすいように私が勝手に
見出しを付けます。

 見出し
 01.出会い
 02.アイドル路線第1号
 03.命名は有馬先生
 04.長女
 05.季節感
 06.タイトル
 07.京平先生
 08.言葉を突く
 09.Jポップ
 10.アレンジ
 11.子供の感性
 12.400曲
 13.日本コロムビア
 14.紅白1971
 15.紅白1991
 16.紅白2005
 17.好きな曲

 出席したお三方は、次のように紹介されています。

 酒井政利(さかいまさとし)
 1938年、和歌山県生まれ。日本コロムビアを経てCBSソニーで
郷ひろみ、山口百恵らをプロデュース。現在はTVコメンテターもつとめる。

 南沙織(みなみさおり)
 1971年に「17才」でデビュー。トップアイドルとして歌謡界で
活躍の後、1978年に引退。写真家の篠山紀信と結婚し、現在は三児の母。

 三田完(みたかん)
 1956年、埼玉県生まれ。NHKで紅白歌合戦などの制作に携わる。
2000年に「櫻川イワンの恋」でオール讀物新人賞を受賞し作家デビュー。
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『オール讀物』2006年4月号(2/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)11時59分49秒
 -アイドルたちが輝いていた!歌謡曲の黄金時代-

 南沙織×酒井政利×三田完

 人々の心に残る名曲が次々と生まれ、テレビが本当に面白かった
70年代。引退以来、ほとんどマスコミに登場しなかったトップ
アイドルが、育ての親であるプロデューサー、NHKで紅白歌合戦の
制作にたずさわった作家と語り合う、あのころと今。

【01.出会い】
〔三田〕
 35年前に沙織さんのデビュー曲「17才」がヒットした当時、
僕は高校1年生で、男子校だったんですが、休み時間に教室で
友だちと女性アイドルのものまねをしていたんです(笑)。
〔南〕
へえ、男の子でもやるんですね、そういうこと。
〔三田〕
 クラスメイトに石井君というのがいて、沙織さんのまねが
とても上手だった。振りも完璧につけて歌うんです。ここ数日、
沙織さんのCDを聞き返していて、石井君どうしているかなと
懐かしくなって同窓会名簿を見たら、教科書会社に勤めて
いました(笑)。当時はまだ沖縄返還前で、デビューした
1971年に初めて東京にいらしたんですよね。
〔南〕
 日付も覚えています。2月5日。酒井さんが空港に迎えに
来てくださって、それが初対面でした。
〔酒井〕
 あなたが羽田空港に降り立ったときの印象が強烈で、いまでも
よく覚えています。アーミーカラーというのかな、グリーンの
服で日に焼けてて、髪が長くて、本当に海からやってきたと
いう感じがしましたよ。びっくりしたのは、我々よりも日本語の
発音がずっときれいだったこと。沖縄でアメリカンスクールに
通っているというから、あんまり日本語ができないんじゃない
かと思っていたくらいですから。
〔三田〕
初対面のときに、篠山(紀信)さんが英語で挨拶したという噂が
ありますけど(笑)。
〔南〕
 どうだったかしら(笑)。酒井さん、当時は髪の毛が長くて
カッコよかった。
〔酒井〕
 そう、みどりの黒髪…(笑)。

【02.アイドル路線第1号】
〔南〕
 わたしは黒くて小さくて、レコード会社の人たちは最初、
付き添いで来ていた母のほうがデビューするのかと思った
みたいですよ。
〔酒井〕
 それはお母さんへのリップ・サービスでしょうね(笑)。
あなたの写真は上京前から社内で評判だったんだから。当時、
CBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)
がアイドル路線で新人の発掘を始めて、私は寺山修司さんの
ところに日参していろいろ雑談していたんです。
 これからのアイドルはあまり人工着色しないナマな感じの人が
いいんじゃないかというアドバイスを寺山さんから貰って、
確かに天井桟敷の一員だったカルメン・マキさんなんかは
文字通り天然の魅力を持っていたんですね。
 そんなときに沖縄から一枚の写真が届いて、ああ、この人
こそナマな素材なんじゃないかと。写真で見ると、歌手として
理屈っぽい感じなんです。知的な顔、文句言いそうな顔と
いうのかな。「笑え」と言ったら「いやだ」と言いそうな。
だけどスタッフに写真を見せたら、みんな「この子がいい」と
言うので、声も聴かないのに東京に来てもらうことにしました。
〔南〕
 歌を聴いてもらってないのに大丈夫かしらと、私も来るとき
不安だったんです、じつは。
〔酒井〕
 東京に来て、とにかく声を聴かせてもらおうということで
歌ってもらった。リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」
がすごく新鮮で、CBSソニーのアイドル路線第一号に決定
したわけです。

【03.命名は有馬先生】
〔南〕
 あの2月5日に、酒井さんが「イエス」と言ってくださった
ところから、すべてが始まったんですものね。
〔三田〕
 当時、CBSソニーの社長だった大賀(典雄)さんが、
沙織さんの面接をしたときのエピソードを読んだことがあります。
ちょうど『ラブ・ストーリー(ある愛の詩)』が日本で公開
される直前で、大賀さんはニューヨークですでにご覧になって
いて「この子はアリ・マックグローに似てる」とおっしゃたとか。
〔酒井〕
 そう、大賀さんも沙織さんのことを大変気に入ってくれました。
とにかく社内がみんな乗ってくれて、芸名を社内から募集しようと
いうことになって、全国の営業所のセールスマンに声をかけました。
 当時の本名は「内間明美」さんですが、写真のイメージと
沖縄出身ということで、「南」というのが圧倒的に多かった。
下の名前は太陽の陽で「陽子」が多くて、いったんは「南陽子」で
決まりかけたんです。
 ところがちょっとありきたりなんじゃないかという意見もあって、
作詞を担当してもらっていた有馬三恵子さんが「沙織」がいいんじゃ
ないかとおっしゃって、「南沙織」に決まったんです。
〔南〕
 「陽子」だといつもニコニコしていなきゃいけないみたいで、
疲れそう。「沙織」でよかった(笑)。

『オール讀物』2006年4月号(3/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)11時58分5秒
【04.長女】
〔三田〕
 酒井さんとはこれまでもたくさん話をさせていただいているん
ですが、南沙織さんのことを語るときはちょっと特別ですね。
表情も口調も、思いの丈が深くなるんじゃないですか。
〔酒井〕
 そうなんですよ。長年にわたるプロデューサー人生の中で、
彼女は私にとっていわば長女なんです。実の親御さんと似た
視点で成長の過程を見守り、そしていまは篠山家に嫁いでいる(笑)。
〔三田〕
 アイドル時代は一年に4枚くらいシングルが発売されるんですよね。
〔酒井〕
 そうですね、ワン・シーズンに一枚です。

【05.季節感】
〔三田〕
 そのせいか、沙織さんのヒット曲を聴いて改めて驚いたのは、
歌にすごく季節感があるんです。タイトルだけ見ても「色づく街」
とか「春の予感」とか「早春の港」とか。
〔酒井〕
 われわれ制作サイドからすると、彼女の場合はデビューが
夏でしょう。夏のレコードを作っているときに、秋にはこうしよう
とか、冬はこんなふうにしてみようとか、次々とビジョンが出て
くる。いろいろと人の想像力を刺激する素材なんですね、沙織さんは。
〔三田〕
 あの頃の歌は、季節の移ろいになぞらえて自分の思いを表現すると
いうようなことを、まだやっていたと思うんです。短歌や俳句の
伝統と通じ合う文化だった。でも、いまの歌は「君とぼく」の二人の
世界に閉じこもっていて、自分たちの周辺の世界、それこそ季節感
みたいなことはほとんど関心がないみたいな気がする。
〔酒井〕
 いまって、自分が一番かわいい、みたいな時代じゃないですか。
だから、どうしても自分のことばかりを歌いすぎる。その点、
'70年代の歌はどこか普遍的なんですね。世代を歌うという
ところがあった。
 当時、取材なんかで「時代の流れをどうやって読むんですか?」
というような質問をされましたが、時代なんて読めやしません。
だけど、3年間くらいの幅の世代の感覚なら読めるんですね。
だから南沙織のレコードというのは、彼女の成長の記録でもある。
〔南〕
 昔のほうがひとつの流れに沿って、いろいろなものが出来上がる
時代だったような気がします。いまは全体の数も多いし、みなさんが
選択する幅も広いじゃないですか。情報が多すぎるからか、自分の
アンテナに引っかかったものにはパッと行くけど、自分はもうこれで
いいという感じだから、みんなが知っている曲というのがなくなって
しまいましたね。

【06.タイトル】
〔三田〕
 沙織さんのヒット曲のタイトルはほとんど酒井さんがつけたと
聞いていますが。
〔酒井〕
 そうですね。最近の歌の作り方は、メロディを先に作る
キョクセン(曲先)が多くて、メロディのこの部分には
5文字の歌詞をいれて、こちらには7文字で、といった
当てはめ方式になりがちなんです。
 私はあくまでもテーマありきで、こういうテーマでいくから
曲調はアップテンポでとか、バラードにしようという感じで
進めていくやり方です。テーマがしっかりしていると、おのずと
タイトルも浮かんできます。タイトルって名刺代わりというか、
歌の肩書きみたいなもので、とても重要だと思うんですよ。
最近はまわりから、「なんでそんなにタイトルにこだわるん
ですか?」と言われてしまうんだけど。

『オール讀物』2006年4月号(4/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)11時56分3秒
【07.京平先生】
〔三田〕
 「17才」以来、多くが筒美京平さんの作曲ですね。
〔酒井〕
 彼女は筒美ワールドにピッタリあっていましたからね。
〔南〕
 だけど京平先生の曲は難しいですよ。
〔酒井〕
 15年前に彼女が久しぶりにレコーディングをしたときに、
スタジオにいらした筒美さんが、沙織さんの声を聴いて涙ぐんで
いたんですよ。歌声にジンと来たんでしょうね。ふだんそういう
表情を見せる人ではないから、とっても印象に残っています。
〔三田〕
 例の石井君が南沙織のまねをするときに、イントロも間奏も
全部やるんです。歌のついていない部分の楽器のまねまでやって、
彼の芸が完成する。だから僕もあの頃の歌はだいたいイントロまで
覚えています。
 だけど、不思議なことに「春の予感」はメロディはすらすら
歌えるのに、イントロが思い出せない。考えてみると、「春の予感」
は筒美さんじゃなくて、シンガーソングライターの尾崎亜美さんの
作曲なんですね。筒美さんのやり方は、もちろん歌のサビの部分に
一番力を入れるんだけど、まずはイントロでお客をぐっと掴んで
やろうという意図が感じられます。
〔酒井〕
 イントロは、いわば包装紙みたいなものですからね。そりゃあ、
筒美さんみたいなプロフェッショナルにとっては勝負の場でしょう。
〔南〕
 「春の予感」は歌いやすいですよ。いま、カラオケに行っても
歌えます。だけど京平先生の曲は難しくて、もう困っちゃう。

【08.言葉を突く】
〔酒井〕
 筒美さんはよく、南さんは言葉を突いて前に出してくれるから
うれしいという言い方をしていました。筒美さんのリズムは
言葉を突いてくれないと生きないんです。
〔三田〕
 言葉を突くという表現は面白いですね。
〔酒井〕
 安室奈美恵さんも言葉を突く人ですね。松田聖子さんもそうです。
〔三田〕
 季節感であるとか言葉を突くという点では、いま一青窈(ひとと・
よう)さんにはその匂いがあって好きなんです。
〔南〕
 私も大好き。
〔三田〕
 あの人は台湾育ちだけど、非常に日本語を大事にしている感じが
する。
〔酒井〕
 客観的に日本のよさを見抜いているんだと思う。
〔南〕
 最近、すごく外国人ぽく歌う日本人が多いですよね。あまりに
外国かぶれしていると、逆に「だったら洋楽を聴きたいわ」と、
拒否反応を起こしてしまうことがあります。外国を取り入れて
いても、やっぱりアジアを感じさせてくれないとつまらないと
思う。だから、 一青窈さんはいいんですね。

【09.Jポップ】
〔酒井〕
 昭和から平成になったのと同じころに歌謡曲がJポップに
なりましたよね。Jポップになったときに、みんな履き違えて
しまったんです。沙織さんが言うように、和と洋が渾然一体と
なったときに、初めていい歌ができるのに。
〔南〕
 私の曲も、当時ほかの人が歌った曲にくらべるとリズム感も
あるし、洋楽っぽいかなと思っていたんですが、最近になって、
じつはアジア的な要素が強かったんだと気がつきました。
〔酒井〕
 筒美さんは和と洋の配分が絶妙さんですね。Jポップの人が
みんな筒美さんの真似をするんだけど、洋を8割、和を2割
だと、もう嫌味になってしまう。やっぱり、7・3とか6・4
あたりの微妙な比率が心地いいんですよ。

【10.アレンジ】
〔南〕
 京平先生はアレンジにもかなり力を入れていましたね。
〔酒井〕
 アレンジが一番疲れるそうですよ。アレンジはいわばメー
キャップですから、それでどうにでも顔を作れます。厚化粧
する人もいれば、シンプルにする人もいる。「17才」を森高
千里さんほか何人かの方がリメークしましたよね。みなさん
それぞれ頑張っていましたけど、中には本来持っている詞の
意味とか、元の曲を壊してしまっているきらいもあったように
思います。
〔南〕
 だけど私、カラオケで森高さんのアレンジで「17才」を
歌ったことがあるんですけど、自分のより歌いやすかった
ですよ(笑)。
〔酒井〕
 ちょうど時代の流れにふさわしいサウンドになっていました
からね。南さんの「17才」が浜辺を走っているとしたら、
森高さんのは街を自動車で走っているような感じでしょう。

『オール讀物』2006年4月号(5/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)11時54分54秒
【11.子供の感性】
〔南〕
 本当にそうですね。そういえば最近、うちの子供たちが車を
運転するときに、まだあまり有名じゃないインディーズの歌手
たちが昔の名曲を歌っているCDを聴いているそうで、そういう
アルバムがいまの若い子たちにすごく受けてるみたいです。
〔三田〕
 グループサウンズの曲なんかが入っているやつですね。
〔南〕
 そう。和田アキ子さんの歌も入っていて、息子が「いいね、
この歌。誰の歌だっけ?」なんて言うんです。うちの息子はまだ
二十歳ちょっと過ぎなんですけど、やっぱり'70年代の歌は
メロディがきれいで詞がいいと言うんです。
〔三田〕
 いま、若い人で昭和歌謡オタクというか、ものすごく熱心な
ファンがいますね。例えば、沙織さんご本人が忘れているような
昔のB面の歌を知っていたりする。ところで、レコーディングの
ときにまだタイトルが決まっていなかったせいで、ご自分の歌
でも曲とタイトルが結びつかないことがあるって本当ですか。

【12.400曲】
〔南〕
 そうなんです。あの頃は昼間はずっと走り回っていて、
夜中はずーっとレコーディングだったでしょう。
〔酒井〕
 そうでしたねえ。スタジオで(午前)1時、2時は当たり前
だった。
〔三田〕
 レコーディングの時点でまだ曲名がなくて、譜面にAとか
Bとか書いてあるだけなんだそうですね。
〔南〕
 アルバムはそうです。もちろんシングルの場合は、最初から
酒井さんがつけたタイトルが決まっているんですけど。
〔三田〕
 当時はシングルと同時期にアルバムも出るんですよね。
〔酒井〕
 そう、アルバムも年4枚。だから大変な曲数で、本当に
強行軍でした。
〔南〕
 私は七年七ヶ月で引退したんですけど、その間に400曲
くらい出しているんです。
〔三田〕
 「17才」から七年七ヶ月っていいですね。七並びで。今年は
南沙織デビュー35周年ということで、記念のCDボックスが
6月に発売されるそうで。
〔南〕
 これまでも何度かこういうものは出しているんですけど、
今度はジャケットを当時のアルバムと同じように紙で作って
再現したのと、テレビで歌っている映像をDVDに収録した
ものが入るそうです。

【13.日本コロムビア】
〔三田〕
 沙織さんの35周年に対抗して(笑)、酒井さんは今年で
プロデュース生活45周年。
〔南〕
 じゃあ、私は酒井さんの10年目に出会ったんですね。
酒井さん、私とお仕事する前は、どんな歌を作っていらしたん
ですか。
〔酒井〕
 じつは、もともとは映画がやりたくて松竹に入ったんですが、
映画界は斜陽で先行き不安になって、日本コロムビアに入り
直したんです。
〔南〕
 最初のヒットはなんですか。
〔酒井〕
 それがね、最初からヒットしたんですよ(笑)。守屋浩さんの
「大学かぞえうた」という歌で。
〔南〕
 よかったですね。プロデューサーにも新人賞があればよかったのに。
〔酒井〕
 コロムビアでは社長賞貰ったんですよ。曲は青山和子さんの
「愛と死をみつめて」。
〔南〕
 えっ、あの曲? 沖縄でもすごくはやってましたよ。
〔三田〕
 レコード大賞をとりましたからね。
〔南〕
 またテレビでやったんですよね、草なぎ(剛)君と広末(涼子)
さんで。
〔三田〕
 ああいう実録ものの本から歌謡曲を作るっていう発想は、当時と
しては非常に斬新的なやり方ですね。
〔酒井〕
 当時、日本コロムビアには美空ひばりさんを担当している人、
村田英雄さんを担当している人と、そうそうたる先輩たちがいて、
なにをやっても太刀打ちできないわけです。やっぱり自分は
レコード会社には向かないんだと悶々としていたときに、
「そうだ映画が好きなんだから、なにか原作を見つけて自分の
頭の中で映画をつくって、それに主題歌をつけるつもりで
やってみたらどうだろう」と思いついて、何作かやってみた中の
ひとつが「愛と死をみつめて」なんです。
〔南〕
 あれは映画よりも歌の方が先だったんですね。
〔酒井〕
 レコードが出てから半年くらいしてTBSの石井ふく子さんが
「東芝日曜劇場」でやって、それから日活で、吉永小百合さんと
浜田光夫さん主演で映画になったんです。じつはそのときに、
映画の主題歌を吉永さんが歌うことになっていて、「愛と死の
テーマ」というタイトルで日本ビクターから発売されることが
決まっていました。ところが、コロムビアの契約課の人が、
私が本の版元と交渉したときに音楽化の独占契約を結んでいた
ことに気がついて、吉永さんの歌は結局発売中止になった。
そんな揉め事も逆に追い風になって、どんどん売れ出して、
年末にはポンとレコード大賞を貰うことができたんです。

『オール讀物』2006年4月号(6/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)11時53分22秒
【14.紅白1971】
〔三田〕
 南さんは「17才」で第13回日本レコード大賞新人賞を受賞
されています。1971年の大晦日は、レコード大賞と紅白歌合戦の
はしごを経験されたんですね。
〔南〕
 帝劇(帝国劇場)から宝塚(東京宝塚劇場)まで、パトカーの
先導でピューと行くんですけど、このときの紅白のことは強烈に
覚えています。トップバッターで宝塚の大階段を降りながら登場
するんですが、イントロが3小節しかなくて、しかも階段が急
なんです。
私は目が悪いので階段がよく見えないし、ハイヒールを履いて
ミニスカートですから、もう大変でした。あまりアガるほうでは
ないんですが、あのときだけは階段のところでもうアガって
しまって、心細くて間奏のときに思わず後ろを振り向いてしまった
のを覚えています。それで、終わったら疲れ切ってしまって、
楽屋で寝ちゃったんです。
〔三田〕
 紅白の楽屋は個室じゃないですよね。
〔南〕
 宝塚劇場は個室だったんです。新人は自分の歌が終わったら、
着替えて応援に行かなきゃいけなかったのに眠ってしまって、
いったいどこに行ったんだと大騒ぎになってしまって。これで
もう来年の紅白出場はないなと思いました(笑)。
〔三田〕
 その年は宝塚劇場に爆破予告があって、スタッフもそうとう
ピリピリしていたみたいですよ。
〔酒井〕
 当時の紅白は、すごい視聴率でしたね。
〔三田〕
 (手もとの資料を見て)1971年は関東地区で78.1
パーセント。

【15.紅白1991】
〔南〕
 三田さんと私の出会いは15年前の紅白歌合戦ね。NHKに
勤めていたころは毎年紅白のお仕事をしていたんですか。
〔三田〕
 昭和57年から平成3年までは、毎年なんらかのかたちで
かかわっていました。沙織さんが紅白で復活出演した翌年に
NHKを辞めたんです。憧れの南沙織と仕事できたから、
もう思いのこすことはない(笑)。
〔南〕
 そのときの紅白には、自分の中でいろいろな意味があるんです。
じつは後悔する気持ちも大きかった。かってのファンの皆さん
に久しぶりに見ていただくことができた反面、やっぱり大きな
裏切りだったと思います。だって、あれはあくまでも篠山明美
であって、もう本物の南沙織じゃないんですもの。言葉を
換えれば、私はあの舞台で完全に南沙織を捨てたのかもしれません。
〔酒井〕
 でも、ファンは喜んでくれたじゃないですか。裏切るのも
また愛なんですよ。
〔南〕
 じつは当時、母が病気で、もう一回ステージに立つ娘の姿を
見せてあげたいという思いがあったんです。もうひとつ、家で
お掃除やお勝手仕事をしている私しか知らない三人の息子たち
に、私が歌う姿を一度見せておきたいという気持もあったんです。
ごめんなさい、紅白を私的に利用してしまって…(笑)。
〔三田〕
 12月になって、出演を引き受けていただけるか胸をドキドキ
させながら麻布の篠山邸にお願いにうかがった夜のことを、
いまでも鮮明に憶えています。居間に四谷シモンさんの作った
等身大の人形が座っていて、ちょっと怖かった。
〔南〕
 お人形、いまもいます(笑)。あのときは、珍しく主人も
テレビに出ていいと言ったんです。NHKからお話がある前に、
主人のほうから「君を紅白に出そうという話があるみたい
だけど」って言われて、私は聞いていなかったので、びっくり
してしまって。そのとき主人がわりと軽い感じで、「出ても
いいよ」って。
〔酒井〕
 あなたは本当に偉いねえ。三人の息子さんを献身的に育て、
四人目のやんちゃ坊主みたいな篠山さんをいつもきちんと
立てて…(笑)。
〔三田〕
 紅白とか「かくし芸大会」みたいな番組は、’70年代
当時もあまり好きじゃなかったと、前にうかがったことが
ありますが。
〔南〕
 でも引退して十数年、紅白をテレビで見ていたでしょう。
それから改めてもう一回出たときに、やっぱり紅白は見るもの
じゃなくて出るものなんだなとしみじみ分かりました。あれは
いい番組ですよ(笑)。
〔三田〕
 やっぱり出演者も裏方も一年の総決算という意気込みが
強烈ですからね。
〔南〕
 歌手としては歌っている時間はほんの3分くらいですけど、
何かをハイジャックしている一瞬というか、すごくいい感じ
なんです。
〔酒井〕
 大晦日という特別な時間を全国の人々が共有している特別な
場なんですね、気分が高揚するような。

『オール讀物』2006年4月号(7/7) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年10月03日(金)11時51分33秒
【16.紅白2005】
〔三田〕
 去年の紅白はご覧になりましたか。
〔南〕
 それが、今回は初めて紅白が楽しいと思うくらい、じっくりと
見てしまいました。
〔三田〕
 僕も全部見たんですけど、お笑いの人たちとかよく知らないから、
ちょっと長すぎる気がした。
〔南〕
 そうですね。短くしたほうが重みがあっていいかもしれない。
〔酒井〕
 どんなに地味でもいいから、NHKが自信を持って国民に薦める
ものを紹介してほしいですね。あまりお茶の間のご機嫌を取ろうと
しないで。
〔三田〕
 自分が中にいたころは、もっと民放っぽくてもいいと思っていたん
です。でも、いま外から見ていると、やはりNHKは重厚なほうが
いい。いま、NHKはあえて民放っぽくしようとしているところが
ありますね。アナウンサーが平気で「やばい」なんて言葉を使う。
〔酒井〕
 私はそういうのはダメだと思う。親しみを持ってもらおうと
しているのかもしれないけれど、逆に媚びているようにしか
見えません。これも世の中の流れだと思いますが、いまは「巨」が
負ける時代なんですね。巨人軍の「巨」が象徴的ですが、国鉄も
専売公社も民営化された。昔はレコード会社も強かったんですが、
いまはアーティスト個人に負けているんです。企画も、誰々が
これをやりたいと言っているからという、セルフプロデュース
ばかりです。NHKだって巨大だったのに、いまはタレントや
歌手に負けてしまっているんです。
〔三田〕
 確かにそれは感じますね。
〔酒井〕
 去年の紅白も一つは出演する歌手に媚びたんですね。歌手の
側からいろいろな条件を出して、ゴネ得で何曲も歌える人が
出てしまった。もうひとつは、民放で見たことがある人ばかりを
使ったでしょう。視聴率が欲しくてお茶の間に媚びたんですね。
NHKは視聴率を欲しいと思わないほうがいいですよ。いらないと
言ったほうが、お茶の間はついてきます。
〔三田〕
 じつは、平成元年に当時の部長やプロデューサーと一緒に僕も
海老沢(勝二)さんとかいろいろな役員のところに陳情に行って、
放送時間を第一部、第二部合わせて4時間ちょっとという今の
サイズに延ばしたんです。
そのときは、昭和から平成になったからという大義名分があったん
ですが、それが既得権益になって、そのまま十数年同じくらいの
サイズでやっている。元凶のひとりは僕なんです(笑)。
でも、いま酒井さんがおっしゃったように、「もう、視聴率は
いりません」と言って昔通りの2時間45分でやったら、逆に
すごい紅白ができるかもしれないですね。
〔酒井〕
 紅白にとっては逆風というか、「巨」が負ける時代でもあるし、
本当のヒット曲がない時代という不幸もある。だから、「スキ
ウタ」みたいな変化球に頼らざるを得なくなるんですね。
〔南〕
 今回は、古い歌もずいぶん歌っていましたね。
〔酒井〕
 古いなら古いで、戦後60年ということで、もうちょっと
何かできたんじゃないかと思うんですが。
〔三田〕
 去年の紅白では、僕は鳥羽一郎さんと山川豊さんの「海の匂いの
お母さん」にグッときました。
〔酒井〕
 うん、あの兄弟絶唱の趣向はよかったですね。
〔三田〕
 あと、長山洋子さんが三線(さんしん)を弾いて歌った「芭蕉布」
にもしびれた。僕が歳とったせいもあるけど、いま、ヴァーチャルな
ものに取り囲まれているからこそ、日本人は自分の足元を見つめたい
願望をみんな持っていると思うんです。そういう気分にぴったり来る
二曲でした。
〔南〕
 私はユーミン(松任谷由実)を楽しみにしていたんだけど、
ガッカリしてしまいました。ユーミンがほとんど歌わないんだもの。
〔酒井〕
 何年か前の中島みゆきさんの出方は圧巻でしたね。卑弥呼みたい
だった(笑)。
〔南〕
 彼女にはちょっと宗教的な雰囲気がありますよね。
〔酒井〕
 越路吹雪さんが亡くなったときに、あれだけのロング・
リサイタルをやる人はもう出ないだろうなと思ったんですが、
結局、越路さん衣鉢を継いだのは中島みゆきだった。「夜会」は
圧巻です。あの人は歌手というより、じつは女優なんですね。

【17.好きな曲】
〔三田〕
 さて、楽しい座談会もそろそろおひらきが近づいていますが、
かつて歌ったご自分のレパートリーの中で沙織さんが一番
好きなのはどの曲ですか。
〔南〕
 一番というと難しいですけど、好きなのは「色づく街」とか、
ジャニス・イアンの「哀しい妖精」とか、「早春の港」といった
あたりでしょうか。それと「早春の港」のB面に入っていた曲で、
ファンの間ではすごく人気がある「魚たちはどこへ」も好きです。
〔酒井〕
 私は「哀愁のページ」ですね。
〔三田〕
 僕は「人恋しくて」が好きで、聴いていると神宮絵画館の前の
いちょう並木を歩いている感じがする。やっぱり詞にもメロディ
にも描写の妙があるんでしょうね。最近巷に流れる歌を聴いて
いても、どこかの風景を思い起こすというようなことはほとんど
ないですけど、ソングライターたちは、周囲のさりげない描写とか
季節感とかをもっと意識したほうがいいと思うんですよ。韓流
ドラマを見ていても、会話する恋人たちの息が寒さで白かったり
するとジンと来ますものね。
〔酒井〕
 沙織さんのときは最初の一年間、有馬三恵子さんが作詞を
担当してくれて、沙織さんが出かける先々に一緒についてきて、
彼女の様子を見ながら、あれこれメモしていたんです。だから、
あの詞は南沙織本人が書いているんじゃないかとよく言われました。
〔南〕
 いま思えば、有馬先生のほうが私より南沙織のことをずっと
よく知っていたみたい。あのころ、私は自分を見つめる意識が
全然なかったんです。自分をもっと冷静に見つめることができて
いたら、南沙織はもっといいお仕事ができたかもしれません。
〔酒井〕
 いや、意識が薄い十七歳だから輝いていたんですよ。あのころの
あなたがしっかり自分を理解していたら、二十七歳と言われてましたよ(笑)。
〔三田〕
 ふりかえれば七年七ヶ月という輝きの時間。素晴らしい人生ですね。
〔南〕
 それもこれも、酒井さんのお陰です。

 (『オール讀物』2006年4月号P320-329)

本当に?? 投稿者:betti  投稿日:2008年10月02日(木)23時22分56秒
「ともだち」のジャケット撮影:立木義浩氏?ですか?
おぼろげな記憶ですけど、篠山氏が最初に撮ったのが「ともだち」
で、それまではアイドルなんてとらない、って言っていた氏が、
それ以降、いろいろなアイドルを撮るようになったというような
ことがあった気がします。今手元に、『南沙織 筒美京平を歌う』
(だったけ?)があれば判明するのだろうけど。今度お会い
できるときに誰か教えてくださいね。

「ともだち」 投稿者:蟹座  投稿日:2008年10月01日(水)22時01分42秒
では、また、この伝言板をお借りして、シンシアのシングル盤に
ついて、書かせて頂こうと思います。今回は第三弾「ともだち」です。

あまり音楽的なことを、書いてもボロが出るので、思い出話を
中心に話していき、シンシアが好きな方に、ひとりでもふたり
でも目に留まれば幸いです

☆曲目データ
○曲名/英題:ともだち/BE MY FRIEND
○B面/英題:いつか逢うひと/YOUR FOOTSTEPS
○作詞者:有馬三恵子
○作曲者:筒美京平
○ジャケット撮影:立木義浩
○発売日:1972年2月1日
○オリコン最高位:7位
○売上数:21万枚

☆ジャケット写真
オレンジイエローの背景、同色のベストを着たシンシアが、
こちらに走ってきます。腕の振り上げ方、髪のたなびかせ方、
決まっています。

☆英題
「BE MY FRIEND」、これは、シンシアもカバーしたアメリカン
ポップスの「BE MY BABY」を、もじったのかな?

☆曲想
シャイな女の子が好きな男の子に声も、掛けられないという
片思いの曲。
シンシアの曲の中で、歌われている女の子の「設定年齢」が一番、
若いと思う。
前回、初期シンシアの曲には、季節感があり、夏=恋真っ盛り、
秋=別れ、失恋、そして春は出会い、恋愛以前と書きましたが、
順番としたら、春、この「ともだち」でデビュー、恋が実って夏、
「17才」、失恋して秋に「潮風のメロディ」という、
ストーリーも順当かと思います。
その一方、「ともだち」の少女は、「17才」の舞台の海辺の
ふるさとから、上京して来たとも考えられます。これについては
後述。
いづれにしても、直接「春」を思わせる季語はありませんが、
その訪れを感じさせる佳曲です。

☆この曲が流行った頃
1972年の2月1日発売。この月、私は高校受験、そして社会的には、
世を震撼させた浅間山の連合赤軍事件。さらにプロレスファンの
私にとって、前年日本プロレス協会を解雇されたA・猪木の動向も
気になった訳で、そういう非常にナーバスで、不安な気持ちを
和ませてくれたのが、この曲です。
そして4月の高校進学、新しい生活に、ウキウキする気持ちで、
「ともだち」を聞いていました。別に、その当時は、シンシア
ファンというほどでもなかったし、レコードも買わなかった。
歌を聞くのはテレビだけだったが、なぜか印象に残っていました。
「17才」、「潮風のメロディ」と来て、段々、南沙織という
歌手が好きになった。
今でも、気持ちが腐った時、この歌を聞くと爽やかになります。

☆このフレーズ
○♪なつかしい、ふるさとの青空を思い出す。
ここで、シンシアを語る上で重要な言葉が出てきますね。
「ふるさと」です。そして、その前に「夕焼けに誘われて、
街角をただ一人」と「街」が出てきます。
「17才」「潮風のメロディ」の舞台は、海辺。おそらく、
この二曲の少女は、海に近い地元に住んでいたけれど、
「ともだち」に出てくる少女は、ふるさとを離れて街(都会)
に出てきたんですね。つまり、これは沖縄から単身、上京して
きたシンシア、そのものなんです。そのシンシアが、まだ街
(東京)には「ともだち」がいない。ふるさとの青空のような
お兄さんに憧れる妹路線の歌です。

○♪よその国から来た人みたい
憧れの男性を「よその国から来た人みたい」と歌っていますが、
それは私にとってシンシアにも当てはまりました。
当時のシンシアは微妙な魅力があって、アメリカが統治していた
沖縄出身、フィリピンとのハーフ、アメリカンンスクールに通う
「日本人とはちょっと違う女の子」、でも、完全に「外人=よその
国から来た人」でもない。エキゾチックな顔立ちだけれど、
日本人とも取れる風貌。
日本人かと思えば、外人みたいなことを言うし、外人にしては
日本人っぽい。そういう、ちょっと捉えどころのない「よその
国から来た人『みたい』」なミステリアスな魅力がありました。

○♪妹か恋人かともだちになりたい。
シンシアは、私より年上だから「恋人」や「友達」ならともかく、
「妹になりたい」と言われても困ってしまった(苦笑)。
明らかに、彼女より年上の購買層を狙ったのでしょう。また、
この時期、アイドル歌手ではシンシアより年下の人はいなかった
ので、これで良かったのですが、この年の半ばから、そうも
言っていられない状況になりました。この丁度、1年後の
「早春の港」では、ぐっと成長して、今度は「お姉さん」
路線になります。

☆男性ファンが、初めて(?)少女アイドルに掛け声を掛けた曲
これは、私の記憶だけなので、ハッキリ断定はできないけれど、
シンシアがこの「ともだち」を歌っている時、
♪大好きよ~♪の後で、会場の男性ファンが声を揃えて
「ウオー!」と叫んだ。続けて
♪あの人が~♪ 「ウオー!」
というシーンを確かにテレビで見た記憶があるんです。それが
確かなら「ともだち」は、初めて男性ファンが組織的に、
女性歌手の歌の合間に「掛け声」を掛けた曲ではないかと
思います。
それ以前は、男性ファンが掛け声や声援を送るのは、みっとも
無いという風潮がありましたから。

☆「ともだち」の少女は、2年半後に成長して、また姿を見せる。
74年の夏に、また現れるんですよ! それはまた、ここで書きます。

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