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Cynthia Street 2008年11月の伝言板

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ドラマ『しゃばけ』1年ぶりに放送。 投稿者:トナカイ 投稿日:2008年11月30日(日)23時16分52秒
 『しゃばけ』というドラマが昨日放送されました。11月29日(土)
21:00からの2時間ドラマです。江戸時代に妖怪に囲まれて暮らす
青年の物語です。昨日がドラマ化第2弾の「うそうそ」という
タイトルでした。

 最初の『しゃばけ』は
1年前に放送されました。2007年11月24日(土)の21時からの2時間
ドラマでした。

 このドラマを偶然見ました。見た場所は奄美大島周辺の海上でです。
当日の朝、クイーンコーラルに乗って、那覇港から鹿児島南港に
向かう途中でした。

 クイーンコーラルは、20時半から50分間、奄美大島の名瀬港に
停泊しました。この時点で船内に映るテレビは、鹿児島テレビ(KTS)
のみでした。どういう訳かNHKも非常に写りが悪いです。BSも
映りませんでした。

 見る番組がこれしかないので、見ていました。見ていたら面白くて
船が出港しました。これまでも船が島から離れてしばらくすると
テレビが見えなくなります。ところがなぜかこの後、3時間ほど
鮮明な映像が映りました。この奄美大島周辺が一番電波が強かったです。

 その後眠ったのですが、起床後はテレビは見れませんでした。
テレビをつけても声は聞こえますが、画面が砂嵐なんです。BSも
そうです。船は、午前5時には九州の南端まで来ています。

 鹿児島市は鹿児島湾に面し、湾は薩摩半島と大隈半島に囲まれた
一番奥の方にあります。クイーンコーラルは、半島の端から港まで
2時間以上湾内を走ります。すぐ近くに土地があるのに、なぜか
全くテレビの電波が入りませんでした。

 久しぶりのクイーンコーラルのHP覗いたら、クイーンコーラルは
12月3日に新鋭の船が就航するそうです。新船の名前は、クイーン
コーラルプラスになります。

 うそうそ:http://wwwz.fujitv.co.jp/usouso/index.html
 しゃばけ:http://wwwz.fujitv.co.jp/shabake/index.html
 マリックスライン:http://www.marix-line.co.jp/

堂々第一位!! 投稿者:betti  投稿日:2008年11月25日(火)14時17分16秒
フジ系の関西テレビってのがあって、50周年記念だとかで、なつかしの
今会ってみたいアイドルってな、上沼恵美子のコーナーがあって・・・。
やはり当然のことと言えましょうか、シンシアが一位!!二位が河合奈保子、
三位が狩人でした。番組としては、それほどのことでもなかったですが
(「17才」のジャケットと曲が流れて、井上耕造と上沼が、彼女と
山口百恵にはオーラがあったとか何とかという、嬉しいお言葉。わずか
ばかりの時間でした。ただ、西郷輝彦が沖縄で彼女と空港であって、
スカウトしたけど、デビュー決まってますとのことで、その後あっと
いう間にデビューしたって話は面白かった。)

『夕刊フジ』にポテト「シンシア」 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月23日(日)22時46分40秒
 『夕刊フジ』に最近、ある企業の情報が載りました。ジャガイモの
「シンシア」を販売している会社です。

 この「シンシア」については、2002年1月10日の投稿で初めて
紹介しています。この年に国内で発売されました。

 何で「シンシア」なのか疑問でした。この記事で、謎が解けました。
フランスの会社の方で名付けていたのですね。おしゃれです。

 シンシアの大ファンだった作家の大岡昇平先生は、帝国酸素という
会社に1938~1943年まで勤めていました。名前からしてして
民族系(日本資本)の会社に思えますが、バリバリのフランス資本の
会社です。今は日本エア・リキッドと会社名が変わっています。

 何かフランスとシンシアは縁があります。

 ジャパンポテト:http://www.japanpotato.co.jp/
 十黄金崎農場:http://www.koganezaki-farm.jp/
 キリンアグリバイオ:http://www.kirin-agribio.co.jp/
 ジェルミコパ社(Germicopa:仏):http://www.germicopa.com/
 加藤幸子のアグリレポート:http://www.food104.com/bn-ata/aguri/vol60.html

 日本エア・リキッド:http://www.jp.airliquide.com/index.html
 神戸新聞記者クラブ:http://club.kobe-np.co.jp/mint/page/atukikaze20020317.html
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『夕刊フジ』にポテト「シンシア」2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月23日(日)20時49分4秒
 ジャパンポテト(上)
 『マイクロチューバー技術により高品質な種芋を安価に大量生産』

-今年は国際イモ年-
 国連が「国際イモ年」と定めた今年は、将来、日本のジャガイモ史に
とっても新しいページが開かれた年として記録されることになるかも
しれない。

 これまで多くの日本人はジャガイモの銘柄というとせいぜい「メイ
クイーン」くらいしか知らなかった。やれ「コシヒカリ」だ、やれ
「アキタコマチ」だと銘柄や産地にやたらとうるさい米への関心とは
ずいぶん違う。

 ところが、このところ色もさまざま、形や味わい、質もさまざまな、
別の言い方をすれば高付加価値のジャガイモが店頭に並ぶようになって
きた。「インカのめざめ」などという銘柄が、タレントの口から
ひょいと飛び出てきたりする。肉が濃黄色で、卵形でやや小粒。
栗のような味わいがある新種である。

 南米アンデス原産で数千年前から栽培されてきたジャガイモは、
いまや2000種を超えるという。世界に冠たる美食家ぞろいの日本人が
「男爵」や「メイクイーン」しか知らないのでは、名がすたろうという
ものである。

 今、こうした新しいジャガイモ食文化創造の仕掛けの中心にいるのが、
ジャパンポテト。出資する十黄金崎農場のホームページを開くと、
冒頭から「テースティングポテト」とネーミングされた色とりどりの
ジャガイモを見ることができる。

 それにしても、なぜキリンがジャガイモなのか。入社5年余の1980
年代後半に、当時まだキリンビールアグリバイオ事業部といった時代
からジャガイモ栽培の研究に携わってきたキリンHDフロンティア
技術研究所の大西 昇がこう説明する。

 「ビール会社だから長年、原料である植物の研究については蓄積が
あったため、事業多角化にあたり、花や野菜などがターゲットとされた。
世界でもっとも広く栽培されているジャガイモも当然当然、対象にされた」

 キリンでは生産農家に種芋を販売することを目指し、病気に弱い
ジャガイモを無菌的に、かつ大量生産することが可能となるマイクロ
チューバーと呼ばれる技術に着目した。

 だが、培養槽の中で効率的かつ大量に作る技術の確立はなかなか困難
だった。ようやくメドがたまっても、畑で植えてみるとうまく育たず、
結局、日本企業として初めて同技術を完成させるには90年代いっぱい
かかってしまった。

-キリンゆえの植物研究蓄積がある-
 「培養液、生育環境、培養槽など、どれをとってもノウハウの塊です」と
大西。99年、大西らの苦闘の末に作られた種芋は農林水産省から原々種と
して認可された。菌に冒されやすいジャガイモの認可基準は厳しいのだという。

 マイクロチューバー技術により、高品質で無病の種芋を、比較的安価に、
かつ大量に生産できる道筋をつけたキリンアグリバイオが次に打った手は、
日本ではまだ作られていないが、日本の土壌に合い、日本人の舌に適した
品種の確保であった。

 ジャパンポテトの青木隆雄代表取締役が語る。「欧州にはジャガイモを
扱う大きな会社がいくつかある。その中でわれわれは加工用やでんぷん用
ではなく、調理して食べる青果用に強い会社を見つけた。フランスの
ジェルミコパ社で、売上高およそ40億円。われわれが望む青果用では
世界一の会社だった」

 2001年7月、キリンはジェルミコパ社との提携を決め、株式の
71%を取得することを決定した。キリンは荒時康一郎社長の時代だった。
これにより、ジェ社の有する「シンシア」などの国内独占販売権を取得
しただけでなく、同社と組みマイクロチューバー技術を用いた新品種
開発により、新たな海外事業展開も可能になった。

 一方、国内での種芋販売などを見越し、すでに00年3月には黄金崎
農場との間で、ジャパンポテトが設立されていた。

 (夕刊フジ2008年11月14日号(13日発行)第17面)
 (企業戦略ウォーズ第3回 経済ジャーナリスト清丸惠三郎文)
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『夕刊フジ』にポテト「シンシア」3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月23日(日)20時42分34秒
 ジャパンポテト(下)
 『新品種「シンシア」普及手がかりにいつか市場の半分自社で取りたい』

-新ジャガを狙う-
 「シンシア」「シェリー」「ドロシー」「サッシー」-。かわいい
女性名というと北米を襲うハリケーンがすぐに思い浮かぶが、これらは
そんな怖いものではない。その名の通り小さくてころころしていて、
実にかわいい。食べれば、ほくほくしていてまたおいしい。

 そう、これらは、キリンアグリバイオの関連会社「ジャパンポテト」が
仏ジェルミコパ社から導入し、ここ数年、種芋として全国の農家に強力に
売り込みを図っているジャガイモの新品種名なのである。

 シンシアは卵型でつるっとした肌、香り高くて豊かな味わいが特徴。
シェリーは国内の在来品種にはない赤い皮をしており、形はきれいな
楕円形。フランスでは青果用として人気で、現地で修行したフレンチの
シェフで知らない人はいないという。

 今最も普及に力を入れているのがシンシア。青木代表取締役に
よれば「キリンがジェルミコパ社を買収する案件と平行して購入話を
進め、2003年に種芋として登録した。見た目もきれいだし、おいしい。
それに収穫量もかなり多い」という。

 とはいえ、主産地の北海道は「男爵」と「メイクイーン」の天下。
ブランド力もあり、当初、なかなか生産農家に食い込めなかった。
そこで青木たちが狙ったのが、いわゆる新ジャガ。晩秋に植え付けて、
春先に収穫するもので、主な産地は鹿児島・沖縄の島嶼部や南九州の
山間地。「デジマ」など必ずしもブランド力があるわけでもない銘柄が
中心だったからだ。

 だが、簡単にことが運んだわけではない。最初のころ、気温の関係で
種芋が芽を出さず、関係者全員真っ青になる事件もあったほどだ。
苦労の甲斐があって08年度のシンシアの生産は、沖縄から北海道まで
一都九県、植え付け面積は150ヘクタールに達し、生産高は4,500
トンにまで増えた。

 とはいえ、全国の生産高が300万トンある中では多いとはいえない。
ジャパンポテト社内の種芋取扱量で見ても、シンシアは7位。ジェルミ
コパ社全銘柄を合わせても、08年にようやく扱いが10%へと届いた
ところである。

-ポテトサラダが人気-
 「われわれとしては、まずシンシアを売ろうということで、大手流通
への食い込みを図ってきた。カジュアルだがちょっと高級という感じで
出したいと、小分けし、青を基調にした包装にも気を配った。用途開発
にも注力し、細かい食感を生かし業務用大手サラダメーカーとコラボ
レーションしてポテトサラダを開発。これが人気で現在シンシア最大の
マーケットになっている」

 ほかに、グループのビアレストラン「キリンシティ」と結び、旬には
シンシアを用いたポテトサラダはもちろん、ボルシチなども提供している。
「サラダは滑らかな舌触りが何ともいえず、またボルシチも味が
しみこんでいて、しかも煮崩れせずにおいしいと評判は上々」(関係者)

 赤い皮のシェリーは女性から「かわいい」と評判で、そうしたイメージ
を生かそうと家庭菜園用種芋などとして売り込みも図る。フレンチフライ用
品種のドロシー、でんぷん用品種のスターターなども、ジャパンポテトが
需要家側のメーカーに売り込みを図ることで、農家への普及を推進している。

-虫害で抵抗性強い種に代替需要も-
 農家への種芋販売はいずれも基本的には「買い戻し条件付き」。
ジャパンポテトが売り先を見つけておき、買い戻す形にしないと、
農家はなかなか新品種を植え付けてはくれないのである。

 「実はでんぷん用品種のコナフブキとポテトチップ用に多く使われて
いるトヨシロに病害虫シストセンチュウが発生、その畑では同じイモが
二度と植えられなくなるという事態が起きつつある。うちのシェリー、
ドロシーには抵抗性があり、代替需要が発生する可能性がある。また、
世界最大のポテトチップメーカーが欧州でサッシーを使い始めた。
これなどもわれわれには朗報です」

 ともかく現在、植え付け面積でも男爵が全国の30%弱、メイクイーン
が14%弱。市場は横バイだが、「いつか、この市場の半分を自社で
取りたい」と語る。意欲や恐るべしである。(敬称略)

 (夕刊フジ2008年11月21日号(20日発行)第17面 )
 (企業戦略ウォーズ第4回 経済ジャーナリスト清丸惠三郎文)
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『読売ウィークリー』2008年12月7日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月22日(土)11時35分48秒
 いよいよ来週で最終号になる『週刊読売(読売ウィークリー)』の今週号、
巻末の特集は二つです。HPのこの部分の紹介を抜き書きますと。

グラビア
★表紙特集(P91~95)
 毎週が「アグネス・ラム」「夏目雅子」だった

 1970年代から80年代にかけて、強烈な魅力を放ったアイドルが
いた。10回にわたって本誌の表紙を飾ったアグネス・ラム、山口百恵、
夏目雅子……「表紙あのころ」3回目は、当時、若者の心を虜にした
5人の女神たち。

★「昭和」を彩った大スター 石黒健治(P96~99)
 「あのころ、時代は熱かった」

 石黒健治さんの写真集「沸騰時代の肖像」から/加賀まりこ、
吉永小百合、天地真理、岩下志麻、栗原小巻、麻丘めぐみ、
富司純子(藤純子)、長門裕之、南田洋子、津川雅彦、石坂浩二、
堺正章、大島渚、唐十郎、野坂昭如、五木寛之、寺山修司氏

 読売ウィークリー:http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

 載っている写真は、右上から時計順に書きますと(敬称略)。
吉永小百合→天地真理→藤順子→麻丘めぐみ→岩下志麻→栗原小巻
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『読売ウィークリー』2008年12月7日号-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月22日(土)11時32分19秒
(写真アップ)
 天地真理さんの写真のアップです。

 天地真理
「当時のアイドルといえばこの人。読売ランドのコンサート会場は、
熱狂的なファンであふれた(1972年)」

(石黒さんプロフィール)
 写真家の説明は下記の通りです。

写真と文 石黒健治(いしぐろけんじ)写真家、1935年生まれ。
1959年、写真協会新人奨励賞を受賞。主な写真集に「広島
HIROSHIMA NOW」「ナチュラル」ほか。67年今村昌平
監督の「人間蒸発」では撮影を担当。81年には映画「無力の王」を
監督。今回紹介した作品は、写真集「沸騰時代の肖像」(文遊社)に
収められている。

 石黒健治HP:http://ishigurokenji.com/
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『読売ウィークリー』2008年12月7日号-3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月22日(土)11時28分58秒
(写真アップ)
 麻丘さんの写真のアップです。

 麻丘めぐみ
「芽ばえ」でデビューし、「わたしの彼は左きき」などがヒットした。
八王子サマーランドで(1972年)」

(写真集情報)
「沸騰時代の肖像-Portraits of the60s」文遊社刊 2006年刊

 A4判/並製/モノクロ写真約120点所収/136頁/3,990円
/ISBN 4-89257-052-4

◎掲載者一覧・50音順
 麻丘めぐみ、浅川マキ、足立正生、阿部薫、安部公房、天地真理、
荒木一郎、生島治郎、石坂浩二、石橋蓮司、五木寛之、今村昌平、
岩下志麻、植草甚一、大岡昇平、大島渚、岡田真澄、岡村昭彦、
岡本太郎、奥村チヨ、小沢昭一、小沢征爾、小畑ミキ、加賀まりこ、
桂米朝、加藤登紀子、加藤治子、釜本邦茂、唐十郎、カルメン・マキ、
川端康成、北島三郎、木村伊兵衛、楠侑子、栗原小巻、小林旭、
小柳ルミ子、西郷輝彦、堺正章、瑳峨三智子、篠田正浩、篠原有司男、
澁澤龍彦、清水邦夫、ジョージ秋山、菅原文太、鈴木いづみ、高木元輝、
高橋英樹、高橋昌也、津川雅彦、つげ義春、寺山修司、土門拳、
長門裕之、中野良子、中村晃子、中村玉緒、野坂昭如、浜美枝、
原田芳雄、針生一郎、ピーター、久富惟晴、土方巽、日野皓正、
深沢七郎、藤木孝、藤司純子、水上勉、水原弘、緑魔子、南田洋子、
美輪明宏、森進一、安岡章太郎、山口嵩、山崎努、由美かおる、
横尾忠則、吉永小百合、吉行和子、李麗仙、若松孝二、鰐淵晴子
◎解説/別役実、齋藤愼爾

 文遊社:http://www.bunyu-sha.jp/
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酒井政利Jポップの歩み第11回天地真理 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月21日(金)00時57分49秒
 酒井政利プロデューサーが定期的に開いている音楽講座、
「Jポップの歩み」、今回第11回が来年1月31日(土)に
開かれることが分かりました。

 ゲストは、何と!天地真理さんです。定員は200名ほどで、
今80名ほどの申し込みがあるようです。70年代のアイドルの
話が聞けそうです。楽しみです。

 古賀政男音楽博物館:http://www.koga.or.jp/
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酒井政利Jポップの歩み第11回天地真理-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月21日(金)00時45分2秒
HPの下部分です。
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今週の輝信さん(081120) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月19日(水)19時24分27秒
 今週の輝信さんは、2つの番組に出演します。

1.びっくり法律旅行社
11/20(木)23:00~23:30 NHK総合

ハワイ▽穴場スポットへほか
出演者/児玉清 タカアンドトシ 黒崎めぐみ
ゲスト/ピーター 天童よしみ 篠山輝信

びっくり法律旅行社:http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2008-11-20&ch=21&eid=26345

2.日立世界・ふしぎ発見!
11/22(土)21:00~21:54
第1078回「邪馬台国の謎は解けた!日本誕生空白の150年」
司会:草野仁 アシスタント:小林麻耶 解答者:黒柳徹子、
板東英二、野々村真、東貴博、知花くらら、篠山輝信
ミステリーハンター:竹内海南江

世界ふしぎ発見:http://www.tbs.co.jp/f-hakken/

 一部の番組情報で、不思議発見には、紀信さんが出演となっています。

ONTV:http://www.ontvjapan.com/

『GSワンダーランド』と『だんだん』 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月19日(水)19時02分47秒
 『GSワンダーランド』とには、岸部一徳さんとマナカナ
(三倉茉奈・三倉佳奈)さんも出演しています。岸部さんは、
レコード会社の社長。マナカナは、ザ・タイツメンのおっかけです。
こちらでも苗字が同じなので、双子の設定のようです。髪型や
服装は違えていますが。

 今、放送中のNHKの朝のドラマ『だんだん』でも、一徳さんと
マナカナは共演しています。ドラマの中のマナカナの祖父役で
一徳さんが出ています。もっとも一徳さんはすでに亡くなっていて、
回想の場面で出てきます。

 『だんだん』は、毎週毎にサブタイトルに歌謡曲の名が付きます。
先週の第7週は、天地真理ちゃんの「恋する夏の日」でした。

 マナカナ公式HP:http://www.manakana.jp/
 だんだん公式HP:http://www3.nhk.or.jp/asadora/

『GSワンダーランド』 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月18日(火)00時54分8秒
 15日に封切られた邦画『GSワンダーランド』を見ました。
あらすじを簡単に書きますと。舞台は1968年から1970年の
日本、世はグループサウンズの大ブームです。あるレコード会社は、
完全にブームに乗り遅れ、急いでグループをデビューさせることに
して、デビューするグループを探します。

 依頼された弱小プロダクション(社員は青年社長のみ)は、
同じ頃、歌手志望の女性が尋ねてきます。彼女は、ピアノも
弾けると言うのですが、結局契約しませんでした。

 別にギターを弾ける高校生がデビューを希望しています。
別にベースとドラムの青年が登場します。この男の子三人が
バンドを組むことになります。

 このバンドを先の社長がスカウト、でもレコード会社から
ピアノが欲しいと言われます。そこで社長、断った女性を
男性としてバンドに入れます。

 デビューして、最初は失敗しますが、全員が白いタイツを
はいて「ザ・タイツメン」と改名したら大ヒットします。
そんな中、女性のメンバーが女性とばれて、ひと騒動起きると
いうような話です。

 あまりCGは駆使しないで、当時の時代風俗を再現した撮影が
見事です。いろいろなまだ残っている建物で撮影してます。

 上映時間は100分、その中で輝信さんの出番は一回です。
映画が始まって15分ほどの所です。ギター担当のメンバーが
デビューする前、彼の家の彼の部屋で、輝信さんが友達から
エレキギターの弾き方を教わります。指の使い方が難しいと
ギターを投げ出す輝信さん。

 二人の会話から、二人は高校の同級生で、どうも高校三年の
夏休みの話のようです。友達は、プロデビューして日劇ウェス
タンカーニバルに出るのが夢と言います。輝信さんは、受験
どうするんだよとか言いますが、友達は、学校には2学期からは
行かないとか言います。輝信さんは呆れて「おれ帰る」とか
言って帰ってしまいます。

 これだけの出番で、約2分ほど映っています。名前は呼ばれ
ませんが、エンドタイトルのテロップには、「村上大吾:
篠山輝信」と出ています。

 映画は、当時の実在のグループサウンドと作詞・作曲家の
名前とかは出てきます。映画の実際は、架空のグループが
出てきます。でもザ・タイツメン(に改名した後)のデビュー
曲は、「海岸線のホテル」で、作詞は橋本淳先生、作曲が
筒美京平先生と実在の先生で、今回は本当にCDも発売されます。

 パンフレットは700円で、23センチ四方の正方形で、
レコードジャケットの感じになっています。表紙には丸い穴が
あり、1ページ目の写真が映るようになっています。

 GSワンダーランド公式サイト:http://www.gs-w.jp/top.html
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G『GSワンダーランド』-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月18日(火)00時49分31秒
 登場人物でアイドル系の人を書きますと。

 レコード会社の社長が、実際にタイガースのメンバーだった
岸部一徳さんです。テレビ局の歌謡ショーの司会が、湯原昌幸さん
です。

 パンフレットには、グループサウンズの年表や当時の世相なども
解説されていて、情報量が多いお買い得なパンフです。

 写真は、パンフレットの橋本先生と筒美先生の解説箇所です。
クリックで拡大

いつもありがとうございます 投稿者:恭ちゃん  投稿日:2008年11月14日(金)12時56分49秒
初めて投稿します。

いつも演奏会の宣伝を載せてくださり、ありがとうございます。
また、演奏会に来てくださっている方々、ありがとうございます。

私はすっかり専門のクラシック畑の人間になってしまいましたが、
Cynthiaのことはいい思い出です。息子さん3人は本当に小さい時に
会ったことがありますが、彼女が息子さんたちの将来が心配な気持ち、
よくわかります。
私の娘も21才になりましたが、まだ足が地についていない状態です。
まあ、母親というのはいくつになっても子供の心配をするのでしょうが。

Cynthiaはしっかりと自分の考えを持った女性ですから、その生き方を
貫き通しているんだなと思うと嬉しくなります。

ヤングパートナー 投稿者:初恋天使  投稿日:2008年11月14日(金)01時33分26秒
トナカイさんこんにちは。初恋天使と申します。
「60年代 懐かしの宝箱」というホームページを作ってます。
南沙織さんのことは70年代なので、番外・自由研究という扱いです。
『ヤングパートナー』ですが、確か番組のテーマソングは、
「コングラチュレーション」ではなかったでしょうか。
書き込みを頂いて、ふと思い出しました。

ところで、自分がFM東京の番組で南沙織さんがゲスト出演した際、
リクエストはがきでしたおまじないは、赤鉛筆で「OK!」と書いた
ことです。
これは南沙織さんがヤングパートナー番組内で「OK!」を連発されて
おり、それに習ったものです。ヤングパートナーのリクエストはがき
にはきっと「OK!」と書いたはがきが多かったのか、遥かな記憶です
が、自分のはがきを見てくれて「これって・・・」と独り言で言って
くれたようなかすかな記憶(一瞬の事ですが)もあります。
興味を持って、持ち帰ったハガキは「ござる調」であったか「候調」
であったかとにかく珍しい日本語だったと思います。

ヤングパートナーでは、棒読みのようななべおさみさんのナレに対し、
南沙織さんの他の番組で聴く(見る)ことのないアットホームで
快活なしゃべりはファンにはうれしかったはず・・・と思います。
まあそれも、なべおさみさんがはしゃぎ加減の沙織さんを遮る
こともない、そんな進行があってのことだったと思いますが。
ヤングパートナーでリクエストでかかる曲はポップであったのか、
当時ありがちなレコード会社のスポンサーだったので新譜を
かけていたのか、それとも両方であったのか・・・。
洋楽ポップをのびのび歌った歌曲が多かっただけに、それと
重なっているのでしょうか。

自分のホームページには遥かな片思いであった女の子の話が
あちこちにつづられています。あまりに辛く、忘れようとして、
長い時間をかけその子の声を記憶から消してしまったのですが、
もう10年近くになるでしょうか、ふとしたことで消息が判り
かつての片思いの子の声を(と言っても当時40代のおばさんなの
ですが)30年ぶりに電話で聞いたとき、鼻にかかる声の甘さが、
南沙織さんのそれにどことなく似ていることに気づきました。

自分は南沙織さとは同世代というか、同い年の世代です。
つまらないことばかり覚えている・・・

http://mtomisan.cocolog-nifty.com/blog/


秘密の県民SHOWで3週間に二回「沙織」さん登場  投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月13日(木)23時30分20秒
 「秘密の県民ショー」は、日本テレビで毎週木曜日の21時からの
1時間番組です。番組の中に、「県の中心で愛を叫ぶ」があります。

 恋の旅人、東京一郎(あずまきょういちろう)が、毎回どこかの県に
行き、そこの美女に一目ぼれして、彼女と一緒にご当地の名所をめぐって、
名物の食べ物を食べて、最後は寅さんのように振られる話です。

 今日の話の舞台は、大分県でした。前々回の10月30日は、千葉県
でした。この2回の放送に登場した美女が、どちらも名前が「沙織」さん
でした。

 大分の名物が「かぼす」で、カボスラーメンが紹介されています。
この時、BGMに山口百恵さんの歌が流れました。「あなたが望むなら、
私、何をされてもいいわ」で、曲名は「青い果実」です。ツボにはまった
選曲です。

 秘密の県民SHOW:http://www.ytv.co.jp/kenmin_show/index_set.html
クリックで拡大

『ヤングパートナー』関係 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月13日(木)22時29分22秒
 『ヤングパートナー』は、シンシアが1971年から翌年に
かけてパーソナリティーを務めたラジオ番組です。この番組の
シナリオ作家が喜多條忠さんでした。毎回の番組の最後、シンシアは
「構成は、おヒゲのキタジョウさんでした」みたいな事を言って
いました。

 その喜多條さんが小説を書きました。「女房逃ゲレバ猫マデモ」と
いう題名で、自伝的小説で喜多條さんの父母の話が中心のようで、
芸能界の話はないようです。

 幻戯書房(出版元):http://genkishobo.exblog.jp/8851208/

 『ヤングパートナー』について調べたら、シンシア関係のサイトが
見つかりました。「60年代懐かしの宝箱」というサイトです。

● 南沙織さんの出演していた番組
 デビュー前は琉球放送の『オキコ・ワンワンチャンネル』『みんなで
遊ぼう日曜ホール』のアシスタントをされていたようですが、デビュー
以後は歌番組ばかりで、バラエティーやドラマは少ないようです。
資料によれば、『おれは男だ』(かすかに記憶有り)などで歌手役
として出演はいくつかあるらしいですが、しっかりしたドラマは
1972年10月~NET系12回放映『股旅USA』、1978年11月NHK『優しい時代
第二部』くらいらしいのですが、もしご存知の方がおられましたら
補足願えれば・・

 ラジオ番組は文化放送『CBSソニーヤングパートナー』(1971年
10月~72年3月?)でなべおさみさんとレギュラー出演しており、
これは小生もしっかりチェックしておりましたが、最終回のみ何故か
聴くことが出来なかったことが思い出されます。この日、春休みで、
親戚と熱海へ旅行で、エアチェックを敢行したのですが、放送時間が
変更されたのかテープには残されず、小生にとって永遠に終りの無い
状態となってしまいました。

 ラジオ番組でのゲスト出演は多かったと思いますが、1972年の
3月?にFM歌謡バラエティーに出演され、小生のリクエストはがきが
山のようなはがきよりご本人に選ばれ紹介されるという快挙?が
ありまして、彼方から蘇って参りました。リクエスト曲は「ともだち」、
パーソナリティーは何かと話題の及川弘子さんと記憶するのですが
時代考証はいかがなものでしょうか?

 何故このような幸運に恵まれたかと申せば、実は前出の『ヤング
パートナー』で南沙織さんが「リクエストはがきはこうあるべき」を
論じており(実はこの番組は彼女としてはのびのびした地でやって
いた)、それに従うという姑息な手段をとったに過ぎませんが、
このはがきが南沙織さんの目を引き「面白そうですね」と言わしめた
ものの当時の彼女の日本語力では難解であり、パーソナリティーの
方に「ご興味があるようですのでこのはがき御持ち帰りください」と
いう「落ち」がつきました。自分自身、内容は覚えておりません。
あのはがき本当に彼女が持ちかえったのでしょうか?

(ご本人のみ知る話題に疑問符をつけてもしかたないですが、
数年前ある掲示板で「ひのきしんじ」さん話題で盛り上がった
ところご本人からの書き込みがありました。)

60年代懐かしの宝箱:http://homepage2.nifty.com/mtomisan/index.html
60年代懐かしの宝箱(南沙織さん大特集):http://homepage2.nifty.com/mtomisan/page051.html

『読売ウィークリー』2008年11月23日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月12日(水)00時28分21秒
『読売ウィークリー』2008年11月23日号P98アップ

『週刊読売』1973年6月23日号

南沙織

沖縄出身で、返還直前の1971年にデビュー。
小麦色の肌と長い黒髪が魅力的。
今でもアイドルとして十分通用する。
(撮影 稲村健)

『読売ウィークリー』2008年11月23日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月12日(水)00時20分49秒
 『読売ウィークリー』が、12月に休刊(≒廃刊)になると、
先々週に発表になりました。65年の歴史に終止符が打たれます。
出版不況もここまで来た感じです。

 それで休刊にむけて、さまざまな企画が出ています。過去の表紙の
紹介の企画がスタートしました。その第1回に、シンシアの表紙も
紹介されています。
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『読売ウィークリー』2008年11月23日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月12日(水)00時15分4秒
『読売ウィークリー』2008年11月23日号P96・97

“表紙65年「表紙あのころ」第1回”

 まばゆい輝きを放ったスターな人たち

 『月刊読売』『週刊読売』の時代から数えると、65年の
歴史を刻んだ本誌の表紙を、さまざまなスターが飾ってきた。
ひときわまぶしく輝き、その時代に夢と希望を与えてくれた
人たち。第1回は、そんな懐かしいスターの肖像を紹介する。
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『読売ウィークリー』2008年11月23日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月12日(水)00時08分23秒
『読売ウィークリー』2008年11月23日号P98・99

HPの情報です。

ウイークリー休刊 カウントダウン企画
★グラビア/4週連続「表紙あのころ…」

第1回は週刊読売を飾った昭和のスター

 65年の歴史を刻んだ本誌の表紙を、さまざまなスターが
飾ってきた。少女時代の吉永小百合や山口百恵、長嶋茂雄、
王貞治……。その時代時代に夢と希望を与えてくれたスター
たち。そしてあのころ、あなたは――。

読売ウィークリー:http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw
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『読売ウィークリー』2008年11月23日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月12日(水)00時04分49秒
『読売ウィークリー』2008年11月23日号P98
わかると思いますが、左上から時計回りでアイドルの名前を書きます。
敬称略です。桜田淳子→山口百恵→天地真理→(故)岡田有希子→
(故)本田美奈子→南沙織
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『読売ウィークリー』2008年11月23日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月11日(火)09時51分29秒
『読売ウィークリー』2008年11月23日号P98
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麻丘めぐみさんが趣味人倶楽部に 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月10日(月)21時12分20秒
 麻丘めぐみさんが、趣味人倶楽部に加入されました。2008年
11月4日(火)から来年4月30日(木)までの限定加入です。

 入会無料です。皆さん、加入して日記を読んで、カコちゃんと
お友達になりましょう。

 趣味人倶楽部:http://smcb.jp/
 カコちゃんのページ:http://smcb.jp/cam/asaoka.html
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『俺たちに明日はないッス』 投稿者:u3  投稿日:2008年11月10日(月)01時08分57秒
銀杏BOYZの「17才」が主題歌の『俺たちに明日はないッス』が
11/22に公開されます。『キネマ旬報』(2008年11月下旬号)によると、
「17才」はエンディングに流れるそうです(封切の3日前の11/19発売)。

映画、GSつながりというわけでもありませんが、篠山輝信さんが
出演するという『GS ワンダーランド』は今週末(11/15)の封切です。
http://www.spacecraft.co.jp/shinoyama_akinobu/
『GS ワンダーランド』の公式サイトには名前が載っていません。
http://www.gs-w.jp/top.html

『哀憑歌NU-MERI』という映画にも出演しているようです。
こちらはすでにDVDも発売され、名前も載っています。
http://www.gp-museum.com/release/0809/06.html

マル激トーク・オン・ディマンド 第348回 史上最強のアイドル論 投稿者:u3  投稿日:2008年11月09日(日)23時08分23秒
2008年01月27日にトナカイさんが紹介してくれた
“マル檄トーク・オン・ディマンド”そのものが
1年近く前に公開されていました。

神保・宮台マル激トーク・オン・ディマンド 第348回(2007年12月02日)
5金スペシャル 史上最強のアイドル論 ゲスト:中森明夫氏(コラムニスト)

長いです。PART 1:93分、PART 2:72分、PART 3:43分

http://www.videonews.com/on-demand/341350/001196.php


『六本木ケントス物語』 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月08日(土)20時21分45秒
 『六本木ケントス物語』

 産経新聞11月6日の広告で、この本を知り麻丘さんの名前が
あったの買いました。「ケントス」という店は、この本で初めて
知りました。本の中の写真は、冒頭の4ページのみ、あとは文字
だけの本です。

 著者の島敏光さんは、伯父は映画監督の故黒澤明さんで、従兄が
黒澤久雄さんです。久雄さんは、クロパンがニックネームです。

 笹井一臣(ささいかずおみ)さんは、「亜麻色の髪の乙女」の
ビレッジシンガーズのベース担当です。笹井さんは、麻丘さんや
岩崎宏美さんをスカウトした音楽プロデューサーでもあります。

 本は、1976年から今年までの出来事を、年の順に書かれて
います。シンシアについては書かれていないようです。

 本は年が変わると、その年に起きた出来事が短く書かれていますが、
1978年には何も書かれていません。最後の方では、安西マリア
さんの面白いエピソードが書かれています。

ケントス:http://www.kentos-group.co.jp/
扶桑社:http://www.fusosha.co.jp/
六本木ケントス物語:http://www.fusosha.co.jp/book/2008/05796.php
島敏光公式サイト:http://www1.tcn-catv.ne.jp/t-shima/

ビレッジシンガーズ公式サイト:http://www.becgroup.co.jp/artistsfiles/village/
麻丘めぐみ「思い出ギッシリ40年」第1回:http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20778
JEWEL SONGS(岩崎宏美):http://www1.ocn.ne.jp/~enja99/music61.htm
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『六本木ケントス物語』2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月08日(土)15時05分46秒
『六本木ケントス物語』
【P71~73】
「ケントス・バンドはまだ人気がないけど、ケントス(店の方)は
新聞やテレビで話題になって全国区だと。それならそのハウス・
バンドをケントスというブランドで売ってしまおうって言ってね、
1976年12月にお店でライブ・レコーディングをすることに
なった。クロパンに司会を頼んで、ちょっと華やかにしようと思って、
インタビューを入れてね。“客席に元ゴールデン・カップスの
デイヴ平尾さんがいます。ちょっとインタビューを”って感じの
ヴァラエティー・レコードにしたのよ」

(中略)

クロパンは客席の吉行和子(女優)に「どう、懐かしい?」と
マイクを向ける。吉行さんは「懐かしいわよォ~。日本語じゃない
からよく分かんないけど」とサービス・コメントを付け加える。

アイドル真っ只中の麻丘めぐみの姿も見える。リクエストを
求められた彼女は「悲しき片思い」と無難に答えている。それに
してもなぜ麻丘めぐみがケントスにいたのだろう。何とか本人と
連絡をとることができた。

(ここからは現在のインタビュー)

島:ケントスの最初のレコーディングの時に現場にいたんだけど、
憶えてる?
カコ:ああ、いたかもしれない。
島:どういうキッカケで?
カコ:ビクターの笹井さんに連れて行ってもらったの。
島:えっ、笹井さんに?
カコ:私はモデルをやっている時、笹井さんにスカウト
されてデビューしたのよ。
島:そうなんだ。確かその後、プライベートでもケントスに
来ていたよね。
カコ:ハマッたのよねェ(笑)。一年間、ずーっとショーちゃんや
ゆたかさんにお世話になってた。クロパンや(坂口)良子ちゃん
にもくっついて、いろんな話もしたわ。
島:そうだったの。ちょうどいい息抜きになったのかな?
カコ:16才でデビューして、外出もできず、言いたいことも
言えず、やりたいこともできず…
島:アイドルの宿命とはいえ、暗い青春だ。
カコ:このままじゃ変な女になっちゃうと思って、20才の時に
独立したのよ。

 かなり思い切ったことをしたものだ。「私の彼は左きき」から
3年後のことである。

カコ:それでこれからは行きたいところへ行って、着たいものを
着て、やりたい仕事をやろうって。その頃にケントスを知って…
島:ケントスの何がよかったの?
カコ:皆、歌を楽しんでる。私にはない世界だったから。
島:そうか、アイドルの頃は歌を楽しむ余裕はなかったんだ。
カコ:何てステキなんだろうって。夜の街も新鮮だったし。
それで一年間毎日のように通った。それが私の唯一の不良体験。
楽しかったなァ。それで21才で結婚して、パタッと行かなくなった。
島:まるで手の平を返すように(笑)
カコ:でも、今でも仕事で地方に行くと、(その土地の)ケントスに
行ってるのよ。

 現在、ケントスは日本の各地に点在しているが、それはまた
後の話…。麻丘めぐみが今でもケントスに行っているとは
知らなかった。うれしい話を聞いた…
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『六本木ケントス物語』3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月08日(土)15時04分13秒
『六本木ケントス物語』
【P124】
 1978年には、キャンディーズが解散、安西マリアが失踪、
サザン・オールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビューした。

【P147・148】
 1970年代後半からケントスに通って、通い詰めた西尾元秀と
いう歯科医がいる。(中略)西尾君は僕より4つ年下の1953年
生まれ。オールディーズ世代からは微妙にズレているはずだ。(中略)

島:1980年前後は有名人は来てた?
西:いっぱい来てたよ。
島:僕の印象ではあの頃はもうそうでもなかったと思うんだけど、
一週間に何人ぐらい来てた?
西:週に一人ぐらいはいたと思うよ。
島:それはいっぱいとは呼べないよ。その3~4年前は一日に十人
ぐらい来てたんだから。
西:そうらしいねェ。でも週に一人だったら、僕みたいな奈良の
田舎者にはすごい確率なんだよ。
島:そうか、奈良じゃ有名人より鹿の方が多いか(笑)。ケントス
ではどんな人を見た?
西:しょっちゅう来てたのは(ドリフターズの)荒井注。一度
あんまり可愛くない女の子を連れてきて、早めに帰ったことが
あるんだけど、それからしばらくしたら別の女の子を連れてきて
また来たの。その子は綺麗だった。
島:ハシゴだよ!全員集合(笑)。荒井注ねェ。もっとメジャーな
人はいないの。
西:山口百恵が来てた。背の高い人と。多分、三浦友和だと思う。
島:そっちを先に言いなさいよ。どんな感じだった。ステージとか
呼ばれたの?
西:いや、一度も呼ばれない。皆、気を遣ってたんじゃないのかな。
そっとしておいてあげようって。でも、僕は我慢できなくって
話しかけちゃった。
島:その気持ちも分かる。何て?
西:“プライベートですか”って。プライベートに決まってる
のにねェ(笑)。そしたら小さい声で“ハイ”って。だから
“大変ですねェ”って言って席に戻った。
島:何かマヌケだなァ。他には?
西:かまやつひろしさんと相席になった。
島:混んでくると何でも相席にしちゃうんだよァ。
西:相席っていうのは素晴らしいシステムだと思うよ。
島:システムじゃなくてただの苦肉の策。
西:でも、そのおかげで色んな人と話をして、友だちになって、
その友だちとまた友だちになって。
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『六本木ケントス物語』4 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月08日(土)15時00分12秒
『六本木ケントス物語』
【P297・298】
 六本木ケントスには、30年以上通い続けているお客さんがいる
反面、若い従業員も多い。伝統的にオールディーズ好きが集まる
のだが、トンチンカンな行き違いが起きることもある。

 数年前に「涙の太陽」で知られた安西マリアがぶらりとやって来た。
目ざといお客さんがそっと彼女を指差し、従業員の一人に「安西マリア
来てるぞ」と告げる。従業員に伝えれば、それはバンドの耳に入り、
ステージで元祖「♪ギーラギーラ太陽がァ~」が聞けるかもしれない。

 ところが若い従業員は安西マリアを知らず、「犯罪マニア」と
聞き違えた。彼は70年代のビジュアル・クイーンをただの危ない
オバサンと思い込み、険しい目でその一挙一動を監視していた。
安西マリアとお客さんには申しわけないことをしたと思っている。

 六本木ケントスがオールディーズの王道を突き進み、新宿はR&Bに
活路を見出し、銀座は70~80年代のロックを幅広く取り入れ、
圧倒的な支持を受けている。

 こうして東京のケントスは見事に住み分けに成功しているが、六本木
ケントスのある場所は、六本木ヒルズ、東京ミッドタウンに続く再開発の
波に飲み込まれようとしている。この先、どうなってしまうのだろう。

 そして、地方のケントスは現在、北から札幌、仙台、新潟、静岡、
名古屋、京都、梅田、岡山、広島、博多、沖縄となっている。東京の
3店舗を加えると14店舗。最盛期と比べると約半分に減ったが、
どの店も力強く営業を続け、売り上げも安定している。

 演奏曲の中心となるのはやはり50~60年代のポップス。
いわゆるオールディーズだ。客層は店によってマチマチだが、
圧倒的に30~50年代が多い。

(写真は、以前に麻丘さんが日刊ゲンダイに連載したエッセイで、
笹井さんについて述べています)
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オバマ大統領誕生! 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月05日(水)23時17分27秒
 アメリカの大統領選挙は、民主党のオバマ氏が、共和党の
マケイン氏に圧勝して当選が確実になりました。

 現地のインタビューで黒人の年配の方が「私が生きている内に黒人
大統領が誕生するとは思わなかった」と言っていました。

 2000年の沖縄サミットの時、テレビに出演したシンシアは、
似たような事を言っています。「母は、自分が生きている内に
沖縄が日本に復帰するとは思っていませんでした」と言っています。

 物事が変わる時は、一気に変わるんだなと思いました。

 1971年は、当初は演歌の年と言われていたそうです。前年、
藤圭子さんの歌が大ヒットしたなど、演歌に勢いがあったからです。

 でも結果として、1971年は和製ポップスが大流行し、
アイドルが誕生した年となりました。

 我々シンシアファンは、歴史の節目に何度も立ち会っています。

 シンシアも、今度の大統領選挙はすごく興味深く見ていたようです。

 YES WE CAN!

シンシアjr 投稿者:1971  投稿日:2008年11月04日(火)13時40分13秒
少し前に、テレビのバラエティ番組でシンシアの息子さんを
見ました。びっくりですね。
とにかく良く似てらっしゃる。
男性なのに、ドキドキしました。

『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷りについて 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月04日(火)01時44分43秒
 2002年、沖縄の本土復帰30周年を記念して、沖縄タイムスは
記念号を出しています。2002年5月15日号に別刷りを発行しています。

 24枚の別刷りの第1面と2面は、シンシアへの独占インタビューです。

 前は沖縄タイムスのHPで読めましたが、あちらが有料データベースを
立ち上げたため、現在は読めません。手持ちの現物を載せます。

『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月04日(火)01時37分7秒
『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り
第1面
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『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月04日(火)01時29分37秒
『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り2
第1面拡大
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『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月04日(火)01時26分11秒
『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り3
第2面
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『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り4 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月04日(火)01時22分50秒
『沖縄タイムス』2002年5月15日号別刷り4
第2面拡大
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BOOKSじのん(宜野湾市真栄原) 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)22時39分9秒
偶然、この本屋のHPを発見しました。シンシアの実家跡地の
近くにある本屋です。去年、沖縄に行った時に偶然この店に
入っています。新刊、古本とも扱っています。沖縄関係の本が
充実していました。

BOOKS じのん
営業時間:9:00~22:00、年中無休
〒901-2215
沖縄県宜野湾市真栄原2-3-3
TEL:(098)897-7241
FAX:(098)898-7039
E-Mail:info@jinon.ginowan.okinawa.jp
http://www.jinon.ginowan.okinawa.jp/

下の地図で説明しますと。真上が北です。地図真ん中にある
十字路が真栄原(まえはら)十字路です。西側が那覇方面です。
水色の水滴状の印が付いていますが、これは何の意味もありません。

この十字路にバス停があり、頻繁にバスが来ます。シンシアも
ここから那覇にバスで遊びに行ったと思います。十字路から北に
6分ほど歩くと、佐真下(さました)91番地のシンシアの実家
跡地に着きます。

途中にある「沖縄カトリック高・中・小学校」とある場所が、
シンシアがいた当時は、クライスト・ザ・キング・スクールで、
シンシアが通っていたアメリカンスクールです。

十字路を南下して、琉球銀行とスーパーサンエーの間にBOOKS
じのんがあります。十字路から南は商店街になっています。
かなり寂れていますが。歩道の上が屋根があるアーケードに
なっています。

BOOKS じのんが40年前にあったかどうかは知りませんが、
もしかしたらシンシアも本を買いに来たかも。
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『琉球放送50年史』1971年拡大 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)12時49分7秒
 『琉球放送50年史』17/17-2
  年表1971拡大
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『琉球放送50年史』 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時57分23秒
『琉球放送50年史』1/17

 琉球放送は、シンシアが番組アシスタントをしたテレビ局です。
『オキコワンワンチャンネル』『100万人の大合戦』で、
アシスタントをしています。

 琉球放送は、1954年に放送を開始しています。2004年
には、放送開始50周年を記念して社史が出ていました。これを
読む機会に恵まれたので、ここにご報告します。内容を17に
分けます。

 社史はA4版でオールカラーで約400ページの堂々たるものです。
アシスタント時代のシンシアの写真が載っていて、今現在のシンシアも
思い出を寄稿しています。

【私の報告目次】
 01.琉球放送50年史
 02.序文(P4・5)
 03.目次(P22・23)
 04.放送会館写真(P043)
 05.忘れ得ぬ人々-八木秀文(P118・119)
 06.忘れ得ぬ人々-八木秀文2
 07.バラエティ写真(P148・149)
 08.琉球放送と私・シンシア(P254)
 09.琉球放送と私・シンシア2
 10.館内案内(P276・277)
 11.編集後記(P282)
 12.年表1967
 13.年表1968
 14.年表1969
 15.年表1970
 16.年表1970-2
 17.年表1971

【奥付】
 琉球放送50年史-琉球放送50周年記念-
 2005年4月発行
 発行:琉球放送株式会社
 編集:琉球放送株式会社50年史編纂委員会
 印刷:株式会社近代美術
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『琉球放送50年史』2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時44分9秒
 『琉球放送50年史』2/17
 02.序文(P4・5)

【序文】
 -その物語は海の上から始まった。-

 世の中が敗戦のショックから立ち直りを見せ、やっと国民に
希望の光が見え始めた頃の話である。

 本土では、1951年に民放ラジオがスタートし、1953年
には、正力松太郎氏率いる日本テレビが民間テレビ第一号として
放送を開始していた。

 その頃、商業放送時代の到来を予見していた創業者・座安盛徳
(ざやすせいとく)は電波事業に情熱を傾けていた。

 当時、戦勝国として沖縄を占領・統治していた米国民政府に
対し、ラジオの賃貸契約を申請するが退けられてしまう。しかし、
座安はあきらめなかった。

 戦略を練り、情報網を張り巡らしながらチャンスを伺っていた。
折りしも琉球大学基金財団が委託したラジオ放送の経営が立ち
行かなくなったことをキャッチすると、座安はいち早く行動を
起こした。

 要職にあった米国民政府情報教育部長のディフェンダーファー氏に
ターゲットを絞り、この人物を口説きにかかったたのである。
釣り好きのディフェンダーファー氏を誘い、沖縄タイムス編集局長の
上地一史氏と船をチャーターして、那覇港のチー干瀬に三人で向かった。

 座安は釣り糸を垂れながら粘り強く交渉を行った。そしてついに、
ディフェンダーファー氏から基本的了承の取付に成功したのである。

 これが今も語り継がれる「洋上会談」であり、その時の釣果が、
今日、創業50年を迎えた琉球放送であることは言うまでもない。
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『琉球放送50年史』3 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時36分38秒
 『琉球放送50年史』3/17
 03.目次(P22・23)

【琉球放送50年史目次】
【前文】P001-023
序文など

【第一部】P024-141
インタビューで振り返る五十年の歩み
 忘れ得ぬ人々Part1
 琉球放送50年史によせて
 忘れ得ぬ人々Part2

【第二部】P142-242
琉球放送の仕事
 イベントなど
 報道番組
 スポーツ番組
 ラジオグラフィティ
 特集・座談会
 関連会社・支社
 放送機器アラカルト

【第三部】P242-266
各界からのメッセージ・琉球放送と私

【第四部】P267-284
資料編

【年表】P285-392
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『琉球放送50年史』4 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時30分54秒
『琉球放送50年史』4/17
 04.放送会館写真(P043)

 シンシアがアシスタントをしていた当時の琉球放送の本社
(放送会館)の写真です。
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『琉球放送50年史』5 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時14分43秒
 『琉球放送50年史』5/17
 05.忘れ得ぬ人々-八木秀文(P118・119)

【八木秀文を語る】
 子供たちのアイドルで、行く先々で子どもたちが群がった八木秀文を
語る

 八木秀文さんは、1966年の入社で、それ以前はラジオ沖縄の
アナウンサーでした。一見、先輩の比嘉俊康さんに似たタイプでした。
ニュースをきちんと伝える非常にうまいアナウンサーというのが
第一印象ですが、エンターテインメントの司会でも面白いのでは
ないか、と思っていました。

 そしたら八木さんの方から申し出があって、それで起用したのが
『オキコワンワンチャンネル』です。スポンサーが菓子メーカーの
オキコ株式会社で、子供たちを出演させて、歌を歌ってもらい、
上手に歌えたらお菓子をあげましょう、という番組でした。できる
だけ家族で歌えるような学校唱歌やフォークソングなどが中心でした。

 あまりリアルにならないように、歌の評価は天の声と称し、
スタジオの片隅にボード状の光ものを作って、そこから歌の批評を
した。実は、その天の声の主は上原直彦です。

 ディレクターが平田嗣弘、司会が八木君、アシスタントは内間明美と
前原明子。内間は、後で中央で歌手デビューを果たした南沙織の本名です。

 二人とも歌がうまかった。それに琉球大声楽科助教授(当時)で、
声楽家の城間繁先生に「歌のおじさん」と称して、レギュラー出演
してもらいました。番組は1967年5月5日にスタートし、
70年5月まで続きました。

 この番組では八木さんは一躍名を馳せた。まさにはまり役でした。
ジョークがうまくて、たちまち子供たちのアイドルとなった。
公開録画に出かけていくと、行く先々で子どもたちが群がって来て、
前からも後ろからも八木君にすがりついた。すごい人気でした。

 また番組オリジナルの曲を作ろうという八木君の提案で、子供
たちに「みなさんも作詞作曲をしてこの番組に参加してください」と
呼びかけたところ、たくさんの応募がありました。採用された歌は
番組の中で歌われ、後にその中の七曲が『それが輪になって~
沖縄のともだちの歌~』というレコードになっています。

 番組も八木君も順風満帆だったんですが、残念ながら、突然病に
倒れ、番組を降ります。後任は中地昌京でした。

 その後、お母さんの出身地である福島県の猪苗代湖の近くに
帰ってそこで亡くなりました。彼が福島に帰ってまもなく、私は
組合のカンパを持って見舞いに行きました。元気なころの八木君の
言葉で非常に印象に残っているのは「沖縄の人たちは、心が荒れて
いる」と。

 復帰闘争が華やかなりし頃で、彼はそういうものを嫌がっていた。
そして「沖縄の人たちに、あの猪苗代湖の美しさを見せたい」と
言っていたものだから、見舞いの帰途、猪苗代湖に立ち寄りました。
紅葉が非常にきれいな時分でした。短いつきあいでしたが、
忘れられない青年です。

 (語り手 平田嗣弘(ひらたつぐひろ)琉球朝日放送社長)

『琉球放送50年史』6 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時10分18秒
 『琉球放送50年史』6/17
 06.忘れ得ぬ人々-八木秀文2

 写真左にある縦書きには、次のように書かれています。
 『オキコワンワンチャンネル』番組アシスタントは左・内間明美
(南沙織)さんと右・前原明子さん
 やぎ・ひでふみ 元アナウンサー(在籍1966年~1970年)
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22112211?SESS=81d60e154600c『琉球放送50年史』7 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時04分53秒
 『琉球放送50年史』7/17
 07.バラエティ写真(P148・149)
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『琉球放送50年史』8 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)02時01分50秒
 『琉球放送50年史』8/17
 08.琉球放送と私・シンシア(P254)

【琉球放送と私】
 琉球放送の創立された1954年は、私の生まれた年でもあります。
「同級生」の私たち。十代の若くて楽しい思い出を共有したといえる
でしょう。お互い、ひとつの節目を迎えました。

 あるオーディションを受けたのがきっかけで、琉球放送で新しく
スタートする『オキコワンワンチャンネル』にと声をかけられました。
当時十三歳。歌は大好きでしたが、引っ込み思案で恥ずかしがりや。
番組ではあまり喋らないようにしていたほどです。司会の中地昌京
さんをはじめスタッフの方々は、チームワークもよく、現場は活気に
満ちていました。そんな周りの方に支えられて、仕事はとても
楽しかったです。

 沖縄が日本に返還される前の時代。私の出演料は、一回五ドル。当時、
琉球放送にあった英語放送のブースの中で、担当者がレコードをかけたり
喋ったりと、一人でスピーディーにこなしているのをガラス越しに
眺めていたことなどを思い出します。復帰前ならではの一コマだと
思います。

 番組が縁で、東京の事務所にスカウトされ、自分の意志で芸能界入りを
決心しました。いつも暖かく見守ってくれたスタッフの皆さんには
「もっと激しく指導しておけばよかった」なんて言われました。

 『ワンワンチャンネル』は最終回まで出演して上京しました。
人生の大きなチャンスを与えてくれた番組でした。

 1971年にデビュー。時代の流れと幸運が重なって、私は歌手と
して世の中に出て行くことができました。それから三十余年が経ち、
沖縄出身の歌手が多く活躍するようになったことを嬉しく思っています。
沖縄のリズムやパワーが受け入れられる時代が来たんだと実感します。
実力があり、歌やパフォーマンスにも説得力がある。「遠い国から
来た娘」という感じで受け止められていた私の時代からは、隔世の感が
あります。

 沖縄は、私にとって原点でありルーツです。素朴で自然に溢れている
風景、音楽…生まれ育ち、多感な時代を過ごした沖縄のすべてが今も
私のなかにいきづいています。故郷沖縄に対する感謝の気持と精神的な
繋がりは、強まっているように感じます。

 次の五十年、琉球放送から沖縄発のブームを作り出す番組を
期待したいと思います。

『琉球放送50年史』9 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時57分50秒
 『琉球放送50年史』9/17
 09.琉球放送と私・シンシア2(P254)

 写真は、『沖縄タイムス』の2002年5月15日号の
「復帰30年」の別刷りに載っている写真をそのまま使っています。

 右のサインは、この寄稿のために書かれたものと思われます。
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『琉球放送50年史』10 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時52分55秒
 『琉球放送50年史』10/17
 10.館内案内(P276・277)
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『琉球放送50年史』11 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時49分15秒
『琉球放送50年史』11/17
 編集後記(P282)

【編集後記】
 琉球放送は、太平洋戦争の終結から9年後の1954年に沖縄初の
民間放送として産声をあげました。戦後の米軍統治時代を経て、本土
復帰という世替わりの特異な歴史の中で情報を発信する地元の放送
メディアとして、県民の間に深く根を降ろし50年の歳月を刻んで
きました。

 開局から半世紀という節目の年に、これまでの放送の変遷を辿り、
歴史の谷間に埋もれている膨大な放送の事実を掘り起こし、後世に
伝えるという使命を担って、50年史編纂委員会が発足しました。

 編纂にあたっては社史という従来の記録書にありがちな固いイメージは
なく、ある程度ストーリー性がありビジュアルを多用した「見やすく
読みやすい玉手箱のような社史」を編集のコンセプトとして作業に
取りかかりました。

 特に戦後の放送の歩みを伝える記録としての価値を高めるとともに、
可能な限りの資料、証言、写真等を収集して時代を検証する事に力を
注ぐことになりました。

 琉球放送の社史は、創業当時の苦難の時代をまとめる10年史は
あるものの、その後40年間は社史が作れておらず、空白の40年間を
一気に埋める作業は、困難を極めました。テレビとラジオは、その時々の
出来事を映像と音声で伝えていますが、記録に残すという作業が手薄に
なってしまいました。

 殊に、テレビ局が開局した1960年以後の記録が少ない上に4度に
渡る放送会館の移転、改築に伴って社内保存の貴重な資料が散逸していた
ことも判明しました。そこで退職した多くの方々の記憶の聞き取りや、
メモ、写真等個人所有の資料を提供して頂き、正確かつ立体的に
組み立てる確認作業に、かなりの時間を費やしました。

 編纂作業の開始から2年余の歳月を経て、時代の移り変わりを県民に
伝えてきた放送の歴史を、体系づけてまとめることができました。
内容は、開局から現在までの半世紀に渡るテレビ、ラジオの番組、
放送技術の進歩、創業期の経営陣の苦悩、番組を支えて頂いた各界
からのメッセージ、そして、放送の礎を築き志半ばにして旅立たれた
忘れ得ぬ方々への回顧等、放送の舞台で活躍された多くの貴重な証言が
盛り込まれています。

 1950年代初頭、チービシ沖の洋上会談からひもといた本書は、
学術的な専門書ではないものの、放送の現場に直接立ち会った人々の
努力と挫折、感動等波乱万丈の生きた証であり、沖縄の放送史として
位置付けられるものと思います。

 最後のなりましたが、本書の取材、編纂、発刊に至るまで惜しみなく
御協力を頂いた先輩諸氏を始め、関係者の皆様に対し、厚く御礼を
申し上げます。

 50年史編纂委員会事務局長 安次嶺通
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『琉球放送50年史』12 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時40分58秒
『琉球放送50年史』12/17
 年表1967

 5月5日『オキコワンワンチャンネル』スタート

 右の記事はミスコンの記事です。RBCは琉球放送です。

【ミスユニバース沖縄コンテスト】
 今日紹介する古台本は今から30年前の「ミスユニバース
沖縄コンテスト」の本番用台本です。30年前といえば勿論
米軍施政下の沖縄、日本本土よりも米国が身近にあった。
アメリカ・フロリダ州マイアミビーチで、世界の美女が一堂に
集まり、その美しさを競い合うミスユニバース大会に、
ダイレクトに沖縄代表を派遣するという華やかで大掛かりな
プログラムを制作した。

 このマイアミビーチの世界大会に沖縄代表が直接参加して
いたのは1963年から1968年までの6年間。当時日本
代表として参加していた「ミス日本」よりも小麦色に日焼け
したクリクリ目の沖縄代表の方がマイアミでは人気があり、
アメリカの『プレイボーイ』誌の表紙を飾った沖縄代表も出た。

 またその年のミスユニバースに選ばれた世界一の美女、
アメリカのシルビア・ヒッチコックさんが沖縄を訪れ、
RBCは「ミスユニバース沖縄の休日」という特番を作ったり
してミスユニバースムードを盛り上げた。

 台本をめくってみると提供は、「RCコーラ」「マックス
ファクター」、協賛「ハリレラ洋装店」等外資系企業ばかりで
当時の営業状況を垣間見ることが出来る。

 その後、このミスユニバース沖縄コンテストは中断し、復帰の
年の1972年に「ミスワールド沖縄代表選出大会」が行われる
が、この頃から日本の一県となり直接世界大会に参加することは
出来なくなる。

 今、わが社は「ミス沖縄選出大会」「沖縄きものの女王選出大会」
「泡盛の女王選出大会」と沖縄の美女をプロデュースしているが、
このプログラムの成功の蔭には30年前の先輩たちのノウハウが
受け継がれていることも忘れたくないものである。

 「RBCフォーラム」1997年10月1日「古台本物語」より
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『琉球放送50年史』13 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時35分58秒
『琉球放送50年史』13/17
 年表1968
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『琉球放送50年史』14 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時32分8秒
『琉球放送50年史』14/17
 年表1969
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『琉球放送50年史』15 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時27分51秒
『琉球放送50年史』15/17
 年表1970

 5月31日 『オキコワンワンチャンネル』最終回
 6月07日 歌番組「100万人の大合戦」スタート(オキコ・明乳共催)

 一般・放送事業関連年表
 10月1日
 第11回国勢調査、戦後初めて沖縄も含めて実施(1億466万5171人、
うち沖縄94万5111人)
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『琉球放送50年史』16 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時24分45秒
 『琉球放送50年史』16/17
 年表1970-2

 5月31日に『オキコワンワンチャンネル』が最終回、翌週の
6月7日に「100万人の大合戦」が始まりました。

 初めて見る『100万人の大合戦』の写真です。しかし、
ちょっと不思議な写真。この時のシンシアの身長は、151cm
ほどでしょう。参加している男性4人は、ほとんど同じ身長です。
当時の沖縄の人は小さかったのでしょうか。
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『琉球放送50年史』17 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月03日(月)01時16分2秒
『琉球放送50年史』17/17
 年表1971

 5月30日
 100万人の大合戦年間優勝大会(最終回)。アシスタントの
内間明美、CBSソニーから南沙織の芸名でレコードデビュー

 (ここから歴史が始まりました)
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『週刊新潮』08年11月6日号 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月02日(日)13時59分30秒
 -男性ファンって冷たい!-

 ひと月ほど前だったか、中学時代からの親友、J子から電話が
かかってきた。「ジュリーのチケットがとれないの! ずっと
チケットぴあに電話しつづけてたのよ。やっとつながったと
思ったら、もう満席だった」

 その名も『人間60年 ジュリー祭り』。沢田研二さんの
コンサートである。「私、今年はもう3回もジュリーのコンサートに
行ってるの。ひとりでよッ。ジュリー、すごく、カッコよかったん
だから」

 今年還暦のジュリーは夏前から積極的にツアーを行っている。
その集大成というべきものが11月29日に京セラドーム大阪、
12月3日に東京ドームで行われるのである。

 私はビートルズ世代より少し下で、同級生が小学校時代に夢中に
なっていたのは一連のグループサウンズ、加山雄三、ザ・モンキーズに
フォーリーブスなどだ。土曜日の放課後は洋楽のヒット曲や
“和製ポップス”情報がひろえる『ビートポップス』(フジテレビ系)に
合わせて帰宅したものである。

 私はグループサウンズではザ・ワイルドワンズの「植田くん」が
大好き(いまでも大好き)で、フォーリーブスでは「ター坊」
(同じくいまでも大好き)、モンキーズではピーター派。
「モンキーズのテーマ」のメロディーで「タイガースのテーマ」と
いうのができたとき、両者のファンのあいだで、「どっちが真似
したか」と言い合いになったっけ(笑)。

 加山さんについては失礼ながら「かすりもしなかった」ので
特に騒がずにいたら、八ヶ岳キャンプのとき、熱烈な加山ファンの
グループから軽いイジメにあった。大人になってからそのことを
話すと、多くの人から「それは、すごく早い」と驚かれる。
東京の私学だったから、ややオマセな子が揃っていたためだろう。

 J子は別の私学の小学校から中学受験をへてやってきた。
中学の入学式の日に聞いたのも「ジュリーとなかにし礼が好き」
(なかにし礼さんは当時、文化放送『セイ!ヤング』の
パーソナリティーをされていた)という話。それから四十余年を
経てもなお同じテンションで夢中になってジュリーの話をしてくる
J子に、プラセンタ注射を何発も打たれたかのような、いっきに
若返ったような気分になった。

 早速、『ジュリー祭り』の公式ホームページを開いてみると、
「京セラドーム大阪まであと○日、東京ドームまであと○日」と
いうカウントダウンとともに、ジュリーがソロになってからの
大ヒット曲のさわりが聴けるようなサービスが…。

 改めて、名曲揃いだし、ジュリーの歌声はセクシーだと思った。
J子をはじめとしたファンはみな、昔のジュリーも、いまの
ジュリーも大好きなのだと思う。その想い、フォーリーブスの
再結成コンサートに通い詰めた私にはよくよくわかる。

 「…でも、ジュリー、すごく太っちゃったよね」「お腹、
出ちゃったよね」とかいう声をよく聞く。それを言うのは
女性ではなく男性に多いような気がするのだ。フォーリーブスの
ときもそうだった。やれ太っただの額が後退しただのシワや
シミが…と言っていたの男性たちなのである。

 ファンじゃなくて思い入れがないから? では何年か前、
天地真理さんが頻繁に露出していたときはどうだった?
やっぱり男性ファンは冷たかったですよね。

 女性は違う。ジュリーしかり、フォーリーブスしかり、
加山さんしかり、お腹や頭髪がどうなろうとも歌声さえ
当時のままだったら昔に還れるのである。その後、J子から
「チケットがとれた」という連絡があった。『ジュリー祭り』、
私も一緒に行くことになった。

 (『週刊新潮』2008年11月6日号P125、
連載エッセイ「秘密の花園」第321回、放送作家 山田美保子)

『週刊新潮』08年11月6日号-2 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月02日(日)13時52分8秒
『週刊新潮』2008年11月6日号P125
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沖縄にある400円の高級カップ麺 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月02日(日)13時08分25秒
 某麻生首相、国会の答弁で、「カップ麺が一個いくらか知っていますか?」
と問われ、「400円位かな」と答えました。大体一個150円前後が
売れ筋の品で、その経済感覚が非難されています。

 そんな中、日刊ゲンダイ2008年10月31日号(10月30日発行)
の第9面に面白い記事が。記者が沖縄で売られているカップ麺に400円の
を見つけたそうです。

 本土でも沖縄ショップ「わした」で買えます。色々調べると、きしめんの
ような平らな麺で、かなり有名な店の品です。

 わした:http://www.washita.co.jp/
 アワセそば:http://www.koza.ne.jp/eat/soba/awase/index.html
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『だんだん』の舞台は京都に 投稿者:トナカイ  投稿日:2008年11月02日(日)12時35分38秒
 『だんだん』第5週は終わりました。結局「春の予感」は
歌われなかったです。残念です。

 最近、京都がブームになっています。今年のノーベル賞受賞者が
教授をしている大学も京都でした。抹茶カフェの発祥も京都祇園の
お茶店です。

 全国に約200店を展開するこってりラーメンの店、天下一品も
本店が京都です。学生の多い京都で若い人にこってりしたラーメンを
出したのが大当たりしたそうです。

 この天下一品、創業が1971年ですので、シンシアのデビューと
重なります。

 『だんだん』の双子の一人は京都の大学に通う設定で、ロケは
花園大学で行われています。

 そうだ 京都、行こう。

 祇園辻利:http://www.giontsujiri.co.jp/gion/index.html
 天下一品:http://www.tenkaippin.co.jp/pcindex.html
 花園大学:http://www.hanazono.ac.jp/
 京都観光情報:http://kyoto.jr-central.co.jp/

21962196?SESS=81d60e154600c「純潔」 投稿者:蟹座  投稿日:2008年11月01日(土)22時09分5秒
毎月、月初めに、この伝言板をお借りして、シンシアのシングル盤を
発売順に、書かせて頂いています。
あまり音楽的なことを、書いてもボロが出るので、思い出話を中心に
話していき、シンシアが好きな方に、ひとりでもふたりでも目に
留まれば幸いです

☆曲目データ
○曲名/英題:純潔/MY TRUE LOVE
○B面/英題:素晴らしい人/WONDERFUL MY LOVE
○作詞者:有馬三恵子
○作曲者:筒美京平
○ジャケット撮影:篠山紀信
○発売日:1972年6月1日
○オリコン最高位:3位
○売上数:35万枚
○備考:1972年紅白歌合戦歌唱曲、レコード売上で、「17才」に
次ぐヒット曲

☆題名
「純潔」、インパクトがあるタイトル名です。当初「純情」という案も
あったらしいが、これでは今一つ。プロデューサーの酒井政利氏自身が
「攻撃的」と言っていますが、「純潔を守るわ」という保守的な歌では
なく、むしろイケ!イケ!のラブソングです。

☆ジャケット
この曲から、後に旦那さんになる篠山紀信氏が撮影を担当。
この写真の表情は、実に凛としていています。それと襟元の星条旗の
バッチ。これが、また謎めいて物議を醸しました。

☆曲想
前作の片思いの「ともだち」とは、打って代わって、ストレート、
開放的な南国娘の恋愛賛歌。
スタートから♪嵐の日も♪です。激しい!「誰もいない海」でも
「夕暮れの街角」でもない。♪お家が飛んでも、身体なんか
消えそうでも♪飛ばします! そして
♪地平線のかなたまで手に手を取って行きたいのよ♪
♪私、愛してる。彼も気づいてる。恋は大事ね♪突っ走ります。
ビートが利いています。
しかしながら、私はこの曲をテレビで、あまり聞いた事がありません。
なぜかといえばシンシアは、この曲の発売のちょっと前から、
休業をしたからです。
それでも、レコードは「17才」に次ぐ売れ行きでした。
舞台裏も含め、「純潔」は、センセ―ショナルな曲です。

☆この曲が流行ったころ
○社会情勢として、
5月15日、沖縄がアメリカより返還。
沖縄人も本土の日本国民も喜ぶべきことでしたが、シンシアは
ちょっと事情が違いました。お父さんは沖縄の米軍基地で、
技師として働いていて、返還、基地縮小によりレストラされて
しまうんですね。

○柔らかいところでは、
シンシア、小柳ルミ子さん、そして天地真理さんの「三人娘」
から、アイドルブームに火が付きました。それまで女性アイドルの
ことを、載せていなかった高校生向き学習誌とか、少年雑誌の
表紙、グラビアまでアイドルが登場しました。

○私はと言えば、
高校に入学したばかりの時です。
中学の頃はプロレスファンでしたが、この72年はA・猪木が
テレビに放送されない全くプロレスがつまらない年で、専門誌も
購読をやめました。代わりに読んでいた雑誌は、『高校一年
(時代かコース)』と、『平凡パンチ』、『プレイボーイ』と
言った青年誌で、これは高校生から大っぴらに買えるという
風潮がありました。あと、芸能雑誌は毎週立ち読み、姉が、
時々、買ってくる女性週刊誌も目を通していたので、芸能界
には詳しくなりました。

○シンシアを取り巻く環境
この年の初め頃から、芸能雑誌に色々とゴシップ記事を書かれ
ました。まぁ当時、マスコミから、あることないこと、書かれた
のはシンシアだけではなく、天地真理さん、麻丘めぐみさん
なども標的になっていましたが。

☆突発的引退宣言
上記のようなバッシングの中、シンシアは4月に盲腸炎で入院。
その前に事務所も移籍、レコードジャケットの撮影者も、新鋭、
篠山紀信氏と、心機一転。退院後の72年5月12日、某民放の
朝のワイドショーにゲストとして出演。新曲「純潔」の宣伝も
兼ね、デビュー1年の振り返りや、今後の抱負を語るのが
テーマでしたが、語るうちに、事務所から、当初の約束を反古
され、学校に行けない等、不満が爆発し、突発的に「引退します!」
と生放送で宣言してしまいます。そのコーナーの終りには、涙を
流して「純潔」を歌ったそうです。この曲もスキャンダルとなった
マネージャーとの恋が「純粋」であったことの証であり、マスコミに
対する回答であったと言われます。
結局、事務所から説得され、引退はひとまず保留、7月2日の
誕生日に撤回。ファンはこの間、危機感を抱き、「引退撤回運動」
を始め、「純潔」の売上に拍車をかけました。

☆若手アイドルの台頭
72年春から夏にかけて、シンシアら、3人娘のブレイクが
引き金になり、若いアイドルが続々とデビューします。その中で、
シンシアの引退騒ぎの真っ最中、6月に現れたのが麻丘めぐみさん
です。シンシアと同じスレンダーな肢体、ロングヘアー、さらに
清純なイメージ。そしてシンシアより、ひとつ年下の正統派な
美少女です。シンシアは昭和29年生まれ、めぐみさんは昭和30年
生まれ、の1年の差が大きい。私としても、同世代感がありました。
しかし、この麻丘めぐみさんに傾いた私の心を、戻したのが次の
「哀愁のページ」でした。

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