伝言板の入口に戻る
2007年03月 の伝言板を読む
2007年01月 の伝言板を読む
本日、オキコ(株)が創業60周年を迎えました。1969年かな、琉球放送の「オキコわんわんチャンネル」にアシスタントでシンシアが出ていました。その番組のスポンサーです。 記念にシンシアにオキコラーメン一箱と花を送りました。家族で食べてほしいな。 皆さんもオキコラーメンを食べましょう。「わした」に売っています。手に入らない時は、チキンラーメンが一番近いです。
オキコラーメンです。一袋に小分けされた5つの麺が入っています。
現在、全国販売されているチキンラーメンです。野菜チャンプルー風で沖縄の味です。
蟹座さんへ。「恋心」は菅原洋一が歌っていましたね。岸洋子も歌っていたかな。(若い人は誰、それ?)「夏の終わり」とは結びつきませんでした。おっしゃる通り少し似ていますね。季節感のある曲は、その時期に聞くのが一番。「9月のエピソード」「9月になれば」今なら「春の予感」「魚たちはどこへ」「早春の港」「涙のひとつ、ふたつ」「遠い海」あたりが聴いて心地いいです。 トナカイさんの「沖縄旅行」興味深く拝見しました。実家の場所が特定できるなんて!私も遠い昔シンシアの影を求めて沖縄に行ったことがあります。トナカイさんとは大違いで何の下調べもぜず、ただなんとなく。返還後でしたが、まだ車が右側通行だったころです。那覇空港で客引きのあんちゃんに捕まって、怪しげな商人宿(寅さんが泊まるみたいな)につれこまれて(しかも相部屋)4泊しました。沖縄にはシンシアみたいな可愛い子がゴロゴロいると思い込んでいました。もちろん、それは幻想でした。客引きのあんちゃんの妹がちょっとエキゾチックな顔立ちなので「沖縄の方?」と聞いたら「大阪から来ました」といわれました。帰りのフェリーの乗務員がシンシアに似ていたので無理を言ってツーショットの写真を撮りました。帰ってから現像してみたらシンシアというより児島美由紀でした。お後がよろしいようで……
2月24日の373さんへのレスです。 ちょっと遅れましたが、トナカイさんの「沖縄旅行」のご報告が入って書きそびれていました。 「夏の終り」いい曲ですね。私も最初に聞いたとき、どっかで聞いたメロディだと思っていましたが、「恋心」というスタンダードナンバーに似ていると気付きました。 ↓で聞けます。如何でしょうか? http://www.fureai.or.jp/~t-mura/koigokoro.html
沖縄旅行記楽しく読ませていただきました。 本当にトナカイさんの行動力とその詳細報告には感心させられます。 ありがとうございました。
トナカイさんの沖縄旅行拝見しました。自分がいつかは実現させたいと思っていた プランをあっさりと実現されてしまった行動力に感服します!先日、東京で会ったときに 沖縄に行くならシンシアのゆかりの地を巡りたいとお話ししましたがあのときトナカイさん の頭の中には沖縄行きのプランが出来上がっていたんですね。 私も例の明星の「スターふるさとマップ」をたよりに考えていたので、ほとんど頭に描いていた通りのプランを実現されていて驚いています。 うちの家族で私だけがまだ沖縄に行ったことがありませんが、いつかきっと「シンシアゆかりの地」をめぐる旅を実現させたいと思っています。その節はいろいろ教えてください。 それにしても、Cynthiaご自身が「沖縄サミット特番」や「沖縄復帰30周年のインタビュー」で語られていたようにまだ見ぬ沖縄の自然がいつまでも綺麗なままであって欲しいです。 http://www.okinawatimes.co.jp/fukki/pdf/2002051502S.pdf
トナカイさん、貴重な情報をありがとうございます。ホテル(?)の件は次回行くときに参考にさせていただきます。でも一ヶ月で2食付で5万という恐ろしい看板も発見しました。それから、航空運賃は少し高すぎます。一ヶ月前にメールで予約すれば、(もちろん、エコノミーですが)JALで、クリスマスイブ前後で片道12,000以下でしたよ。 でもすごいな。シンシア跡地。しかし、ANAにしてもJALにしてもホテルのところは全部埋立地だそうな。もっときれいだったんだろうな、シンシアのころの沖縄って。
拡大画面左側です。
拡大画面右側です。
突然ですが、沖縄に行って来ました。ほんとに突然なんです。この21日(水)に航空券取って、22日(木)の夜出発、24日(土)に帰ってきました。二泊三日ですが、実質二日間の沖縄滞在です。今年の一月末に、1972年の復帰後の観光客の来島数が一億人を突破しました。去年は年間560万人ほどが訪れています。 しかし、シンシアの家とその足跡をたどるだけで来島したのは、私くらいの者でしょう。二日間で行った場所は、シンシアゆかりの地ばかりです。 話の発端は、2月始めにさかのぼります。2月7日に投稿しましたように、宜野湾市佐真下(ぎのわんしさました)のシンシアの実家が取り壊され、跡地が売りに出されています。 沖縄の実家の方は、こちらも全くノーマークでした。実家が更地になったことを知ってから、心の中に沖縄に行こうかという気持ちが芽生えました。「今なら跡地に立てるじゃないか」と思ったのです。この考えは最初は葉っぱだったのですが、ジャックの豆の木のようにどんどん大きくなりました。最後は雲を突く大木になって、後先考えずに行こうという事になりました。 23日(木)は、20時羽田発、22時45分に那覇空港着。宜野湾市北部の普天間(ふてんま)のホテルに着いたのは零時になっていました。ここも宜野湾市です。そのまま休んで、翌日佐真下に行きました。全く偶然にも、オークションでシンシアのレコードを落札、出品者は那覇市の人でした。タクシーですぐ近くの北谷(ちゃたん)に行き、レコードを受け取りました。そのまま佐真下に向いました。国道58号線を南下して、佐真下の南の方から隣の真栄原(まえはら)に着きました。 私、沖縄は1984年に一度訪れていて、今回は23年ぶりの来島です。でもあの時は佐真下の方には行っていません。佐真下訪問は初めてです。昼近くに佐真下91番地のシンシア宅跡地に到着しました。完全な更地の上に立ち、さっきスーパーで買ったオリオンビールで一人で乾杯したりしました。 その後、タクシーで那覇の中心部に行きました。最初の写真をもらったお友達に会ってお礼を言いました。その後、琉球放送などシンシアゆかりの場所を散策しました。夕食は、これまたシンシアも行った「ジャッキー・ステーキ・ハウス」で食べました。那覇バスターミナルからバスで普天間に帰り、その日は休みました。 A ○ B すごく略図にして表現しますと。○が普天間基地です。Aが私が泊まっている普天間です。Bが佐真下です。初日は基地の左側(西側)を通って佐真下に行きました。二日目は基地の右側(左側)を通って佐真下に行きました。 今回はバスで近くまで行き、そこから歩いて佐真下に行きました。長田(ながた)という場所で降りて、そこから西に伸びる道を1.5kmほど歩くと佐真下です。今日も感慨にふけった後、真栄原のバス停から那覇に向いました。 那覇のバスセンターに着いてから、沖縄随一のメインストリートである国際通りを散策しました。那覇空港から15時35分の便で帰りました。 早足でシンシアゆかりの場所を訪ねた旅でした。
沖縄を訪ねて、現地を見てわかったことが沢山あります。まさに百聞は一見に如かずです。 私が頼りにしたのはただひとつの資料です。月刊明星1973年8月号の「スターふるさとマップ 南沙織 沖縄県宜野湾市」です。 これだけを頼りに現地を訪ねました。わかったのは、シンシアの家から学校である、クライスト・ザ・キング・スクールまでは徒歩10分弱だという事でした。 この学校は閉校しましたが、その跡地がそのまま沖縄カトリック高校(幼・小・中併設)だとわかりました。 シンシアが買い物をした食料品店はまだありました。しかも内装・外装ともここ40年間手入れなしな感じで、私にはすごくうれしかったです。 高校の隣に真栄原カトリック教会があり、これがシンシアが通った教会と思っていました。でも間違っていました。 シンシアが通っていた教会は、普天間カトリック教会でした。帰宅してから気づいたのですが、この教会、私が泊まった普天間のホテルから400mしか離れていない場所にあったんです。 もう少し調べてから行けばよかったです。すぐそばを通ったのに(ToT) 普天間カトリック教会は今も、当時のままの建築でありようです。 佐真下と真栄原のシンシアゆかりの場所は半分ほど残っていました。これに対して那覇市内の場所は全滅でした。那覇の中心部は東京並みに建物が建っていて、昔の面影は全くないと言ってもいい変貌ぶりでした。 カトリック沖縄学園:http://catholic-okinawa.ed.jp/ 普天間カトリック教会:http://w1.nirai.ne.jp/sai/wedding/futennmach.htm 真栄原カトリック教会:http://w1.nirai.ne.jp/sai/wedding/maehara.htm
今回の旅行のノウハウを書いてみます。 (沖縄のバス) 沖縄は、2003年にモノレール(ゆいレール)が開通するまで、鉄道の空白県でした。といっても12km弱の線路ですが。その代わり、道路網はとても充実していて、全島にバス路線が張り巡らされています。 那覇市の中心部にある、那覇バスターミナルは、バスターミナルとしては異例の規模です。乗り場が15箇所あり、50近くの路線があります。バスには行き先別に番号が振られています。 今はモノレールが開通したので、少し整理されたようですが、バスがひっきりなしに発着、出発します。シンシアが沖縄にいた時と同じく、真栄原のバス停から乗りました。真栄原の前は4つ位の那覇行きが通り、10分に一本はバスが着ます。土曜日の昼に乗って、那覇バスターミナルまでの運賃は420円、時間は30分強でした。 ただ、自家用車の普及でバスの乗降客は減っているようで、那覇バスターミナルは、40年前とほとんど同じ作りのようです。ただ、洗面所などは水道が自動水栓になるなど最新の設備はあります。バスターミナルの建物は長さが120mほどもある直線です。1階が各バス会社の事務所や運転手の控え室などで、2階はオフィスや食堂が入っています。 建物全体で、食堂が3つ入っていましたが、現在は2階の食堂一つだけです。すぐ隣にローソンもあり、売り上げが減っているようです。食堂も午後1時過ぎに入りましたが、数人の客しかいませんでした。1970年当時は、きっと外まで行列ができるほどの繁盛振りだったと思います。 ただし、味はおいしいですし、値段もリーズナブルです。これは沖縄の食全般に言えますが。 店内は1970年代を感じさせるレトロ感で、私にはすごく楽しかったです。きっと、シンシアも家族とここでバスを待つ間に食事をしたに違いありません。 沖縄路線バスどっとこむ:http://www.rosenbus.com/ (沖縄のタクシー) 沖縄では、タクシーが市民の足として定着しているようです。こんな道?と思えるほど人通りの少ない道でも、数分待てば流しのタクシーが通ります。シンシアの家前は、車の往来も少なく、住んでいる人しか歩かないような場所です。でも、初日に私は、シンシアの家の前でタクシーを拾って那覇に向っています。 ごく大雑把に行って、那覇空港から那覇市中心部まで5km、中心部から佐真下まで10km、佐真下から普天間まで5kmです。 深夜に那覇空港に着いて、タクシー乗り場は40mほどの行列が出来ましたが、タクシーもどんどん来て10分ほどで乗れました。空港から普天間まで4000円弱でした。佐真下から那覇まで、大体で2300円ほどです。 (ツアー) いずれも一人で出発の話です。羽田発着の2月出発ですと、出発1週間前までの出発なら、一泊二日で、29,800円ほどのが沢山ありますが、全部完売します。3月になると5,000円ほど高くなります。すごい人気なので、早めに申し込まないといけません。しかし、沖縄に一泊二日で行く人って多いんですね。 この手のツアーはキャンセル待ちのようなものはないそうです。一週間前になると航空会社がチケットを引き上げるそうです。この手の激安ツアーの一番のネックは出発時間です。スカイマークの羽田発午前6時55分が行きの飛行機になります。これだと6時には羽田空港に着かないといけません。多くの人は、前日都内のホテルに泊まらないといけません。これで数千円は出費になります。帰路も、那覇空港発11時の便か17時半の便しか選べません。往復ともこれ以外の便は割増料金になります。この後、夏に向うと料金は更に高くなります。 (航空券だけ) この時期の羽田-那覇間は、通常料金は38,100円です。出発5日前なら21,000円ほどで手配出来ます。私は前日出発で、25,600円のチケットで往復を用意しました。ただ、この方法にもメリットがあります。往復の時間を自由に選べます。私の場合、20時出発の便を選べました。 (ホテル) 意外な伏兵がホテルでした。水曜日に出発を決めた私はホテルを探しました。これが予想外の苦戦。ネット上で予約を受け付けている那覇周辺のホテル30軒ほどで、高級を除いたホテルは全滅でした。全く予約が取れないのです。 結局、ホテルは予約しないで羽田に向いました。事前に宜野湾市のホテル一覧は打ち出しておいて、羽田から電話しました。予約なしで先着順のホテルもあり、一軒のホテルが予約が取れました。 着いてから値段を聞いたら、一泊3,500円でした。あまりの安さに部屋だけであとは共有と思ったら、バス・トイレ付きの部屋でした。どうもアメリカ人向けのホテルのようですが、私以外はほとんど泊まっていないようでした。ここに2泊しました。2泊で7,000円です。 この宿には感激しました。作りが1970年代初頭なんです。部屋が板張りで浴室はタイル張りです。今回の旅にはぴったりでした。回りは少し歓楽街みたいですが、着いた時には人通りはありませんでした。町自体がアメリカ兵相手の町のようです。 ネットのホテル情報では、高級ホテルしか表示されません。私がヤフーの電話帳(トップページの「調べる」にあり)から、沖縄県→スポーツ・レジャー→宿泊施設→ホテルと行き着きました。こういう探し方もあります。 ビジネスホテル千代:沖縄県宜野湾市真志喜4丁目1-1(TEL:098-897-2121) (シンシアの足跡をたどる旅) シンシアの足跡をたどる旅を志すなら、やはり宜野湾市に泊まりたいものです。残念ながら佐真下周辺にはホテルは全くありません。普天間の方になりますが、その方が雰囲気が出ます。航空券だけ買う方法は出発時間を選べます。宿も満足行く宿が格安で見つかります。 (みんな沖縄に行こう) 観光は、沖縄の重要な産業です。「シンシアゆかりの地を訪ねる」だけでも、沖縄の産業に貢献出来ます。みんなで沖縄に行きましょう。 沖縄も変化しています。佐真下は区画整理中のようですし、今がシンシアの足跡を訪ねるには一番いい時期かもしれません。同じような旅をしたい方、ご相談いただければ、いくらでもお手伝いします。
佐真下の住宅地図です。丸の部分がシンシアの実家跡地です。 グーグルの地図は、左端の縦の線を動かすとズームになります。上の十字の矢印を押すか、画面をマウスの左ボタンを押したまま動かすと、画面も動きます。
グーグルのマップの写真の見方 グーグルで検索を「宜野湾市佐真下91」と入力して、入力欄の上のマップをクリックすると、地番の地図に飛びます。航空写真をクリックすると現地の写真が出ます。 この時指された場所がすこしずれています。住宅地図の丸の部分がシンシアの家の跡地です。これを参照に見て下さい。取り壊されたのは、去年の10月頃のようです。
シンシアの家の跡地です。佐真下91番地です。ちなみに撮ったデジカメでの写真の通し番号、これが17でした。
シンシアの家の跡地隣の歩道です。真栄原方面まで松並木です。佐真下は昔松並木が有名だったようです。歩道の右側がシンシアの家跡地です。
シンシアの家の北にある佐真下公園からシンシアの家を見た光景です。
シンシアの家から真栄原方面(教会方面)にゆるい下り坂を4軒ほど行った所に食料品店が二軒並んでいます。その一軒が「セイワ真栄原店」です。この店がすごい。内装は少なくとも30年間一度も変えていません。昔のよろずやマーケットの雰囲気そのままです。シンシアが買い物に来た時の雰囲気がそのまま味わえます。ずっと残って欲しい店です。
真栄原カトリック教会です。左隣がカトリック沖縄学園(クライスト・ザ・キング・スクール跡地に建つ)です。私がシンシアが洗礼を受けた普天間カトリック教会と間違えた教会です。
沖縄バスターミナルの全景です。外壁は白く塗られて新しいですが、中身は1970年そのままです。とってもレトロな雰囲気が大好きになりました。
バスターミナル2階の「みつ食堂」です。安くて早くてうまくて空いてる店です。
K.Hさん、有り難うございます。 まちがいなくフランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」でした! いつからチンクエッティと私の記憶は入れ変わったんでしょう?(笑) 73年だとラジカセにとって良く聴いていたんですが‥。 チンクエッティで調べてもでてきませんよね。私が載せたブログにもちゃんとフランソワーズで出ておりました。http://clambon.exblog.jp/i26
興味深い話題が続きますね。すでにご存知と思いますが「春の予感」I've been mellow はオリビア・ニュートン=ジョンの「そよ風の誘惑」Have you never been mellow のアンサーソングだそうです。小林克也が言ってました。ついでにいうと吉田拓郎の「シンシア」は「早春の港」のアンサーソングといわれていますが私にはひとつピンと来ません。似た曲というのではアルバム「シンシアストリート」の「夏の終わり」とアルバム「I've been mellow」の「引き潮」のサビの部分が少し似ていると思いませんか。
Shigeruさん、お尋ねの曲はひょっとしてフランソワーズ=アルディの「さよならを教えて」('73)ではないでしょうか?この曲なら確かに歌い出しから「哀しみの…」に似たメロディで始まります。 「雨」と「純潔」なんて考えたこともなかったですが、頭にアクセントを置いた歌い方という点では確かに共通していますね。同じブログに「傷つく世代」のことも書いてますが、こちらは「レイラ」にだけ触れていますね。
K.Hさんのカキコを読んで思いたったんですけど~。 以前から気になっていたのですがアルバム「哀しい妖精」の中に収録されている「青い服の想い出」(作詞安井かずみ、作曲加藤和彦、編曲荻田光雄)ですが、1973年~75年くらいによくラジオでかかっていたジリオラ・チンクェッティ(だったと思う)の曲を思い出すのは私だけでしょうか?調べてみたのですが曲名がでてきません。ヒット曲「雨」が「純潔」に似ていると書かれたブログはありましたが…。http://clambon.exblog.jp/i57 そうではなくて「青い服~」の後半のフレーズ♪哀しみのトゲをさしたまま~の部分なのですが…。どうしても曲名が思い出せないのですがどなたか思い当たる曲ありませんか?
シンシアの初期の楽曲(筒美さんの曲ばかりということになります)について、元ネタ・類似曲などまとめて書いてみます。有名なものは省いてます。 島の伝説 ナンシー=シナトラの「シュガータウンは恋の町」に似ていると最近気づきました。歌い出しのメロや、「パパッパー」のフレーズ等を取り入れている感じです。この間から、ナンシーのことをよく引き合いに出しますが、彼女の60年代のヒット曲(仕掛け人は、リー=ヘイゼルウッド)は歌謡曲への影響も結構大きいと思います。 潮風のメロディ 定説の「ローズガーデン」の間奏から引用した、ということに異論はありませんが、ホリーズの「ごめんねスザンヌ」(’69)等、似た曲は他にもあります。ディーン=マーチンの「誰かが誰かを愛してる」も半音進行という点では同類でしょう。 ともだち 似てるというほどではないけど、このイントロを聴くとリトル=ペギー=マーチの「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」を思い出します。もちろん「アイ ラビュッ アイ ラビュッ」というところ。 哀愁のページ 初めて聴いたときから歌い出しが、加山雄三の「まだ見ぬ恋人」に似てると思っています。(これは結構有名?) 早春の港 かなり強引ですが、歌い出しのメロがスペイン民謡の「バレンシア」という曲に似ていないこともないです。 ひとかけらの純情 同じ筒美さんの作品で、弘田三枝子の「涙のドライブ」と似たメロが使われてます。榊ひろとさんの言う「筒美さんのコアな部分」を感じるセンチなメロですね。(「雨降りなの」というところ) 最後に超有名な「傷つく世代」のイントロのことについて。本によっては、クラプトンの「レイラ」に似ているとか、エルトン=ジョンの「罪人に憐れみを」に似ているとか書いてますが、まずエルトンが「レイラ」をヒントに「罪人に…」を作ったのだと思われます。筒美さんのアレンジは「罪人に…」の引用でしょうが、その辺を総合的に書いてある本に出会ったことが無いので不満に思ってました。
山口県防府(ほうふ)市の富海(とのみ)海岸に行って来ました。当地出身の有馬三恵子先生が、「17才」を作詞する時、イメージを得た海岸と言われている場所です。 2月19日(月)の昼過ぎに行きました。JRの富海駅から歩いて5分ほどで着きます。土曜日に雨が降りましたが、当日は快晴で青空でした。幅300mほどの海岸です。砂はとてもキレイです。浜辺には貝殻が沢山落ちています。ナマコも数匹打ち上げられていて、海に投げ返してあげました。 カモメが一羽飛ぶのも見ました。「二人カモメになるのよ」の歌詞を思い出しました。海岸の端には海鳥が海に浮かんでいました。海水も澄んでいます。気温が低いので海には入りませんでしたが。 冬ですし、文字通り「誰もいない海」でした。2時間ほどいましたが、お年寄りが数人散歩に通り過ぎただけでした。 冬の日差しを浴びて海岸に立つと、ファンとしてとても嬉しくなりました。
当日の富海海岸の風景です。
今回の旅行、広島行きの激安旅行で行きました。のぞみの指定席の往復に広島プリンスホテルに一泊で、なんと19,500円というものです。シーズンオフだから出来る旅行です。この旅行のミソはのぞみが指定されていることです。行きは東京発11時の便、帰りは広島発19時の便のみにしか乗れないのです。 ツインの部屋で2名で応募するのが条件です。17会会員のTさん(男性)と一緒に行きました。でも片道の新幹線代に少し上乗せほどの料金で往復にホテル代が出るので格安です。 広島プリンスホテルは、海に面してあり、市街地から離れています。市電の広島港から徒歩30分ほどです。日曜日の宿泊客は最大でも定員の2割ほどだったでしょう。事前に広島でオフ会の話は、誰も申込者がいなくて中止になりました。 最初は、チェックインしたら広島市内でお好み焼き屋に行こうと思っていましたが、着いたら外出する気力もなくなり、ホテル内の「李芳」という中華料理の店で夕食をしました。 翌日は広島駅からJRで富海駅まで行きました。快速を使っても2時間弱の旅でしたが、海が見えるいい旅でした。 広島プリンスホテル:http://www.princehotels.co.jp/hiroshima/
この投稿は、少し話を作っています。富海海岸から広島に戻った時は、16時を過ぎていました。Tさんが原爆ドームを見たいというので、市電に乗って見に行きました。 再び広島駅に戻る時、駅近くに興味のある店があったので、降りてそこで夕食を食べました。この居酒屋は、昭和浪漫を売り物にしていました。店内には、レコードや新聞の切抜きがいくつか並べられています。昭和というより、広島カープを応援する店で、新聞切り抜きもカープの優勝のものでした。 レコードも広島カープの応援歌のものがあります。何気なく見たら、何と!有馬三恵子作詞とあるではありませんか。この店には30分しか居れなかったので、すぐに出て新幹線で帰ったのでした。レコードの名前も覚えていませんでした。 翌日、調べてみて事情がわかりました。レコードは「それ行けカープ」というドーナツ盤でした。作詞は有馬先生で、1975年に発売されています。 この年、広島東洋カープ(当時)は、悲願のセリーグ初優勝をした年に誕生しています。広島出身という事で有馬先生が作詞されたのでした。 それ行けカープ(若き鯉たち):http://www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/5142/htk_oenka.htm
『感動染み込んだラブソング 親しみ色あせず』 広島市民球場で七回表の攻撃が終わると、決まってこの歌が場内に流れる。親子連れ、若いカップル、お年寄り…世代を超えたファンが一体となり、メガホンをたたきながら一緒に歌詞を口ずさむ。広島が勝っていれば歓喜の歌、同点や負けていれば激励の歌へと早変わり。ナインにエールを送る。歌い終わると、夜空にジェット風船の花が咲く。 この劇空間を演出する応援歌は一九七五(昭和五十)年夏、初優勝を願って誕生した「それ行けカープ」。サブタイトルは「若き鯉たち」。歌っているのは塩見大治郎さん(52)=横浜市青葉区。作詞は有馬三恵子さん(63)=千葉県市原市、作曲は宮崎尚志さん(64)=神奈川県三浦郡葉山町=が手掛けた。 生みの親とも言えるのが当時、CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)広島出張所長だった三野浩さん(56)=東京都保谷市。「広島の街では食事しても、飲みに行っても、カープファンじゃないと全然、おいしくないんですよね」。転勤して阪神ファンからくら替えしていたものの、何か物足りなさを感じていた。 球団創設期に作られた応援歌「我らのカープ」「カープの歌」は、あまり歌われていなかった。「東京六大学のような応援歌があれば、乗りが違うはず」。新しい応援歌のレコード化を思い立った。ジョー・ルーツ監督から古葉竹識監督にバトンタッチされて、間もないころだった。 「17歳」など作詞 三年連続最下位の前年までとは、打って変わった粘り強さを発揮。感動に満ちた試合をたびたび演じた。失敗を恐れず、チーム一丸で立ち向かう挑戦野球は、快進撃を予感させた。本社の制作ディレクターだった市橋茂満さん(51)=東京都世田谷区=に持ち掛けると、とんとん拍子に話がまとまった。市橋さんが東京育ちながら、 アンチ巨人だったこともあった。球団の了解を取り、私設応援団の賛同も得た。 作詞を依頼した有馬さんは防府市出身で、「小指の思い出」(伊東ゆかり)「忘れるものか」(石原裕次郎)「17歳」(南沙織)「積木の部屋」(布施明)など次々とヒット曲を手掛ける売れっ子だった。根本陸夫監督時代、「広島カープを優勝させる会」の代表世話人の一人だった佐々木久子さん(69)=東京都目黒区=に誘わ れ、春季キャンプ地めぐりをしたのがきっかけでカープにほれ込んだ。 猛者ぞろいと映った阪神、南海、阪急に比べ、「広島の選手は青春ぽいっていうか、書生らしい雰囲気を漂わせていた。逆に言えば、ひ弱かったのかもしれないけど、親しみやすかったのね」。隣県出身のよしみもあった。「優勝させる会」のメンバーに加わり、ナインとも顔見知りになった。「わがいとしのカープのために、詞を書きたい」。そんな思いを抱くようになったころ、舞い込んだ応援歌の作詞話。「ついに(やりたかった仕事が)きた。胸の中は天にも昇る心地でした」。早速、本をひもといて研究した。応援歌の言葉は硬く、文章はげき文。色恋ものの歌謡曲とは違い、女性としては書き慣れない筆致だった。「軟弱になるな」「強い気持ちで向かえ」…考えがまとまると、一日で一気に書き上げた。 歌詞は四番まである。 ♪はるかに高く栄光の旗を立てよ ♪闘志をつくし今ここで花と咲けよ ♪あしたへ続くきりのない夢であれよ ♪優勝かけてたくましく強く躍れ さわやかさと精神性を加味し、格調高く、親しみやすい言葉で、悲願の初優勝へ向けたファンの思いを代弁した。また、それは「私のカープへのラブソングでもあるんです」。 宮崎さんは「スカッとさわやか コカ・コーラ」のCMソングで一躍、注目を浴びていた。「市民がたる募金までして存続させた球団の生い立ちに、ひどく感動した。商業ベースを抜きに、ひたすら赤ヘル野球に魅せられた制作者の熱意にもこたえたかった」と言う。 (中国新聞より) 中国新聞:http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/warera/990731.html
373さん貴重な情報ありがとうございました。 73年の6月のコンサートなので確かに季節は初夏ですね。 ずっと気になっていたコンサートだったのですが実際に行かれた方の話に初めて触れることができました。加藤登紀子さんはこのサイトでも紹介されているようにCynthiaと親交が深かったようで、このコンサートも加藤さんが取り持ってくれたそうです。 当時のステージの写真でCynthiaが泉谷さんとならんでステージに立っているものがあるのですがコンサートの最期でいっしょにステージに立たれたのかもしれませんね。 泉谷さんが娘さんに「さおり」と名付けられたのは有名な話ですがこれが縁だったのかも知れませんね。 私は当時はまだコンサートを聴きに行くこと自体まだ夢のような話だったので実際にコンサートに参加されたとは羨ましい限りです。
私の記憶が確かなら(古い!)1973年の初夏でしたね。泉谷しげるも好きだったので迷わずチケットを買いました。まだピアなどはなくて渋谷駅にあるプレイガイド(これも古い)で求めました。当日は土曜日だったと思います。開場は夕方からでしたが自由席のため昼間から行列ができていました。私は友人と3人で並んだのですが、音楽堂からはリハーサルの音が良く聞こえ、シンシアの「傷つく世代」の歌声が聞こえたときは胸が高鳴りましたね。コンサートはシンシアが先だっかた泉谷が先だったか思い出せませんが、別々に一時間ぐらいの出演で共演はなかったと記憶しています。でも確か、そのときの好印象で泉谷は生まれたばかりの娘に沙織と名づけたくらいですから共演はあったのかもしれません。よく覚えてなくてすません。印象に残っているのは加藤登紀子が来ていたこと、オリジナルナンバーの他には「五番街のマリー」を歌ったこと、初夏の蒼い夜空にシンシアの歌声が高く響いて感動したことくらいですね。あのときのコンサートは一連のシンシアのコンサートの中でも特筆すべきものだったと、行っておいて良かったと今でも思っています。
2004年の6月に投稿させてもらった「聴け!伝説の日本のロック1969-79」(宝島社)に載っているポスターの写真を投稿してみます。みえるでしょうか? Cynthiaにとっても、とても思い出深いコンサートだったと話されてますが もしもこの野外コンサートに行かれた方がいらっしゃいましたら、そのときの様子など 教えて頂きたいです。 http://www.cynthiastreet.com/dengon/den0406.html 安井かずみさんとは日音のご縁なんでしょうか? http://www.musicman-net.com/relay/29/a_4.html アルバム「シンシアストリート」は私にとって非常にインパクトの大きいアルバムです。 少し乾いたサウンドと安井さんの詩はとてもマッチしていてカッコイイです。
NobuKoさん、ありがとうございました。 「月の女神」で調べてみると、 ギリシャ神話で「セレーネ」「アルテミス」「ヘカーテ」「ポイベ」。 ローマ神話で「ルナ」「ダイアナ」と6人も出てくるんですよね。 で、「シンシア」なんですが、「アルテミス」の異称とする説あり、 「ダイアナ」の異称とする説ありで誠に悩ましい限りです。 まあ、私、八百万の神を信じる日本人ですから「みんな一緒でいいや」 とも思うのですが… どなたか神話に詳しい方、迷える子羊ををお導き下さい。
私も見ました。いつまでもお綺麗ですね。 あの時代のアイドルの人はみんな可愛かったですね。
徹子の部屋(テレビ朝日系、月~金13:20-13:55)の今日のゲストは、麻丘めぐみさんでした。 娘さんが化学の勉強のためにフランスに留学している話や、母が故郷大分に帰って、念願の一人暮らしをしている話。一人娘が思春期に反抗期なった時、医者のアドバイスで立ち直った話をしています。アドバイスは娘を三歳児(赤ちゃんとほぼ同意語)のように過剰な位に接してあげなさいというものでした。娘さんとは毎日メールのやり取りをしているそうです。 30年ほど前、黒柳さんが司会をしていた歌番組の話も出てきました。浅田美代子さんと仲良しでいつも一緒にいたと言っています。当時は歌番組が毎日のようにどこかの局であり、アイドルはいつも顔を合わせていましたが、男のアイドルとはほとんど話さなかったとか、彼らは暇があれば寝ていたと言っています。女性の方はしゃべっている方が多かったと黒柳さんと懐かしく語っていました。 黒柳さんは、当時のアイドルの名前をかなり挙げていましたが、残念ながら三人娘の名前はありませんでした。 復帰した後、女優になりましたが、演技の壁にぶつかった時に困ったのが師匠がいないことだったそうです。そんな時に助けてくれたのが、山岡久乃さんでした。彼女に稽古をつけてもらい、麻丘さんは彼女を師匠と仰いだそうです。 この辺の事情は、次の投稿をご参照下さい。「麻丘めぐみ-思い出ギッシリ40年-連載10(2006.9.1) 投稿者:トナカイ 投稿日:09月02日(土)10時35分28秒」 今日の黒柳さんは和服でした。明るい色の和服です。麻丘さんが山岡さんの話をして、奇しくも本日は山岡さんの命日でした(1999.2.15逝去、享年72)。 それを聞いた黒柳さんが言います。「この着物は、山岡さんからいただいた物です。お葬式の後、家族からもらってくれといただきました」の旨を言います。 それを聞いた麻丘さん、涙ぐんでいました。いつも素敵な麻丘さんでした。 徹子の部屋:http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/
トナカイさんが紹介されたページの沖縄編の方ですが、後ろのほうに行くと「梅ドラゴン」が出てきます。あれは絶品です。梅と黒糖とバナナ味があります。一袋15個位で単価200円。纏め買いすればまけてくれます(笑)。今もなめています(爆)。 ちょっと分からないのですが、黒砂糖関係では、中村家のやつですね。あと泡盛は「春雨」。今度お目にかかれる機会があれば、買ってもっていきますね。暮れに宜野湾観光をしてタクシーの運転手さんに教えてもらったものばかりです。シンシアと直接関係ない話ですいませんでした。
「オキコ」って知っていますか? シンシアのデビューきっかけになった沖縄琉球放送の番組が「オキコワンワンチャンネル」でした。シンシアはアシスタントとして出演していました。 私も今年になって知ったのですが、この番組のスポンサーが「オキコ」でした。では、オキコとは何かですが、食品会社でした。それもすごい会社です。 沖縄には本土とは違う食品のシェアがあります。例えばビールだとオリオンビールが一番強いです。同じように、パン業界では、オキコが一番大きい会社のようです。 1969年当時のオキコは、麺類を作る会社でした。当時の主力が「オキコラーメン」でした。10年ほど前に生産中止になりましたが、ちょっと変えて復活しています。通販もしています。 そのオキコ、創業が1947年2月28日です。この月末が創業60周年になります。ちなみに「ワンワン」は当時の会社のマスコットが犬だったから、ワンワンになったようです。 この会社がスポンサーだったから、シンシアが世に出ることが出来ました。みんなで2月28日を祝いましょう。 島の伝説~南沙織:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/7068/saori.html オキコ株式会社:http://www.okiko.net/
NHK総合の歌番組(か?)「あの歌がきこえる」、今日は「赤い風船」(浅田美代子)を取り上げました。漫画は永井豪という豪華版でした。冒頭では、ドーナツ盤ジャケットの写真が大写しされました。 放送は、毎週水曜日22:45~23:00、再放送は、翌週の水曜日(火曜深夜)1:55~2:10です。来週も見れます。 あの歌がきこえる:http://www.nhk.or.jp/anouta/
辞書引いてみました。 Selene ━━ n. 【ギリシア神話】セレネ ((月の女神)). Cynthia ━━ n. 女性名; キュンティア ((月の女神Diana(の異名))); 〔詩〕 月. Diana ━━ n. 女性名; 【ローマ神話】月の女神 ((処女性と狩猟の守護神)) 良くわかりませんがローマ神話とギリシア神話の違いなんでしょうかね? シンシアじゃなくてキュンティアなんて言い方もするんですね、日本では…。
見てきましたよ、イヤーかわゆいですね、見ただけで目じりが下がります(笑)、しかし皆さんよくお探しで!、熱意が違うのでしょうか?。 今日、私だけ残っていました、二度寝をして九時頃に目が覚めたら誰もいなかった!、という事はCynthia三昧だ!!、こんなチャンスはめったにないです、アンソロジーのDVDとPremiumのDVDを引きずり出して何度も再生してみてました(笑)、アンソロジーのCynthiaむちゃくちゃかわゆいです!!目じりが下がってました。
公式のサイトの掲示板で紹介されているのは、これですね。それにしても、はにかむ笑顔がすごくかわいい。 http://blogs.yahoo.co.jp/kenji100avant/13469280.html
たけしの誰でもピカソ(テレビ東京、毎週金曜日22:00-22:54)の9日の放送は、研ナオコ特集でした。芸能生活35周年のご本人がゲストで登場しています。彼女の経歴紹介で、当時の歌謡界の様子も説明されました。 「研ナオコの同期は、天地真理、小柳ルミ子、南沙織といった正統派アイドルたち」のナレーションが流れ、「しかし、研ナオコはアイドル路線とは一線を画した国民的三枚目アイドル」と続きました。 新三人娘の話の時は、三人のシングルレコードが写りました。水色の恋、わたしの城下町、17才が並べられ、それぞれ5秒ほど歌声が流れました。シンシアも「誰もいない海~」が歌われました。 シンシアと関係があったのはここだけでした。来週はちあきなおみ特集で、これも注目です。 http://www.tv-tokyo.co.jp/pikaso/
朝の連続テレビ小説が放送中です。NHK総合、毎週月~土曜日8:15-8:30、12:45-13:00(再放送)です。 今は「芋たこなんきん」が放送されています。大阪を舞台にした作品です。1960年代から物語が始まっています。時の経過を表すために、ドラマの中でその時々にヒットした歌謡曲がかかります。BGMとして数十秒かかっています。 セットでポスターが貼られていたのは見た気がしますが、テレビなどの直接の映像は流れないと思います。 2週間ほど前の放送では、「帰ってきたヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)の曲が流れました。1967年12月25日の発売の曲です。 今日の放送では、「花嫁」(はしだのりひことクライマックス)が流れました。この曲は1971年1月10日発売です。 物語は1971年に入りました。来週か再来週には同年夏の話になるでしょう。どんな曲が流れるのか。とても楽しみです。 http://www3.nhk.or.jp/asadora/
今は、『続・僕たちの洋楽ヒットVol.6 '65-'66』『ボン・ボン・フレンチ 2』『ボンジュール・パリ!~ボン・ボン・フレンチ・スペシアル』に収録されているマージョリー・ノエルの「そよ風にのって」は、CDではそれまでDISKPORT西武から出た『FRENCH POPS Vol.1』というオムニバス盤にしか収録されていませんでした。 たまたま、先日久しぶりに『FRENCH POPS Vol.1』を引っぱり出してみました。1曲目がマージョリー・ノエル「そよ風にのって」、5曲目がジョー・ダッサン「オー・シャンゼリゼ」、 16曲目にフランス・ギャル「夢見るシャンソン人形」というCynthiaがカバーした曲の原曲が入っているのでした。 ジョー・ダッサン「オー・シャンゼリゼ」を検索して、 “「オー・シャンゼリゼ」誕生秘話~ あるサイケバンドの軌跡”というページにたどり着きました。 http://www.eigo21.com/03/pops/ze26-2.htm “1964年にロンドンで結成されたJason Crestという5人組のサイケ・バンドの4枚目のシングルが「Waterloo Road」で、当時ロンドンに滞在していたフランスの人気歌手ジョー・ ダッサンが何かの機会に「ウォータールー・ロード」を聞き、これが気に入り3枚目のアルバムに収めることにしました。 こうして「Down Waterloo road」は、作詞家ピエール・デラノエ(Pierre Delanoë)によって「Aux Champs-Elysées」に変わったのでした”ということです。もともとイギリスの曲だったのですね。 そのページの“ウォータルー・ロード(一部)”右のスピーカーマーク(?)にリンクされたページで、Jason Crestの「Waterloo Road」が聞けます。 また、http://www.dassin.org/en/chansons.htmlによると、 ジョー・ダッサンは「オー・シャンゼリゼ」を、フランス語(47)、ドイツ語(48)、英語(49)、イタリア語(50)、そして日本語(51)でも歌っているのですね(すべて試聴可)。英語の「オー・シャンゼリゼ」はほとんど、“Waterloo road”が“Champs-Elysées”になっただけですね。
「夏の終り」という曲で安井かずみさんを知りました。 心の中を見透かされたようにストレートな気持ちを詩にされて グッと来ることもしばしばでした。 TANAKさんおっしゃるように「夏の終り」は名曲だと思います。 私は、こんな素晴らしい曲もっと世に出て欲しいと思う気持ちと カバーによって本来の「夏の終り」が変ってしまうんじゃないかと心配です。 シンシアがナマで歌っているところ聴いてみたかったですね。
夏の終りは、名曲だと思います。誰かカバーしないかな?
宇宙航空研究開発機構(JAXA)では、平成19年夏に月周回衛星SELENE(セレーネ)を打ち上げるそうです。そしてその機体のシートにメッセージを刻んでくれるそうです。(文字サイズは35mμだとか…。誰が読むんだろう?) http://www.jaxa.jp/event/selene/index_j.html それで、「月の女神シンシアよ永遠に!」なんて書いて送ろうかと思ったんですが…、「セレーネ」って「シンシア」とどういう関係になるのでしょうか? セレーネって名付けた人にはそれなりの思い入れがあるだろうし、勝手にシンシアの別称と解釈してはまずいかな?
u3から教えてもらいました。安井さんがシンシアに提供した曲は沢山ありました。次の曲が安井さんの詩の曲です。調べずに投稿してごめんなさい。 安井かずみさん詞提供曲(除「オー・シャンゼリゼ」) 『哀しい妖精』 青い服の想い出 『Cynthia Street』 20才の立場 ゲット・ダウン・ベイビー 夏の終わり ドラッグストアのひと 若い旅人 シングル よろしく哀愁(カバーだけど)
メル友が沖縄のシンシアの家の跡地に先週行ってきました。最近解体されて更地になっていたそうです。シンシアの家は、宜野湾市佐真下という場所にありました。色々ネットで調べると、ここ数年で付近が区画整理されたようです。昔の番地は19でしたが、区画整理で逆さまの地番になったようです。 佐真下もだいぶ新しい道が出来たりで、だいぶ変わったようです(行った事ないけど)。シンシアの母校、クライスト・キング・スクールも1989年に閉校していました。ちょっと寂しいですね。 写真はメル友が送ってくれた物です。売地138坪とあり、一軒の家としては広いので数軒分がまとめて売地になっているのかも知れません。それとも沖縄の家は広いのか。その辺の事情は分かりません。
シンシアの実家跡の写真です。元のデータが大きすぎて載せられないので、画面の写真をデジカメで撮っています。売地とある更地がシンシアの家があったと思われる所です。
2月1日(木)に故安井かずみさん(1939-1994)の思い出を語る座談会に行きました。たまたま新聞に告知広告があり、ネット上で応募したら当たりました。衛星第2放送でも放送される公開録画で、18:30から21:00近くまで休み無しで開かれました。 小柳ルミ子さんやアグネス・チャンなどゲストが豪華でした。冒頭、ゲストが順番に歌います。湯原昌幸さんが「よろしく哀愁」を歌いました。平尾さんは歌手と座談会参加に参加しています。 安井さんの幅広い仕事ぶりを紹介していて、次のような場面が。「この歌も安井さんの訳詞です。頭でイメージしていただくように曲だけお聞きいただきます」とハーモニカの演奏だけでこの曲は紹介されました。 その曲とは、「オー・シャンゼリゼ」でした。私はアッと思いました。この曲は、シンシアのファーストアルバムに収録されています。安井さんはレコード会社も違ったし、シンシアに曲は提供していないと思っていましたが、ポップスの訳詞の形で提供していたんですね。帰宅してから歌詞カードを見たら、確かに「安井かずみ作詞」とありました。 座談会の最後の方の方ではこんな意味の発言が。「当時は女性の作詞家も少なく、彼女の仕事は際立っていました」 シンシアファンは、有馬三恵子先生という女性作詞家を当たり前と思っていましたが、有馬先生に曲を書いてもらった事もシンシアの歌の素晴らしさを際立たせていたのですね。 会場は662席収容ですが、ほぼ満席でした。来月3月31日に録画中継が放送されます。お見逃し無く。
http://www.jasrac.or.jp/culture/schedule/2007/0201.html 日本の歌謡史を彩った作家達シリーズ 第4回 安井かずみ 550名様無料ご招待 ■日時:2007年2月1日(木)18:30開演(18:00開場) ■会場:保谷こもれびホール メインホール(西東京市中町1-5-1) ■内容:戦後の復興や高度経済成長を成し遂げた「昭和」。この昭和という激動の時代を舞台に、日本の音楽史に大きな足跡を残し鬼籍に入った作家達に焦点をあて、彼らの作品と人となりを時代背景と共に検証していきます。第4回は作詞家の安井かずみを取り上げます。 ■演奏予定曲目 ・わたしの城下町 作詞:安井かずみ 作曲:平尾昌晃 ・危険なふたり 作詞:安井かずみ 作曲:加瀬邦彦 ・経験 作詞:安井かずみ 作曲:村井邦彦 ・よろしく哀愁 作詞:安井かずみ 作曲:筒美京平 ・草原の輝き 作詞:安井かずみ 作曲:平尾昌晃 ・ちぎれた愛 作詞:安井かずみ 作曲:馬飼野康二 ・若いってすばらしい 作詞:安井かずみ 作曲:宮川泰 他 ■出演:由紀さおり/小柳ルミ子/錦織健/アグネス・チャン/辺見マリ/湯原昌幸/平尾昌晃(作曲家) ■ゲスト:フランソワーズ・モレシャン/林哲司(作曲家) ■演奏:大石昌美(ハーモニカ)/栗田信生とJ’sバンド ■司会:春風亭昇太/由紀さおり ■放送予定日:2007年3月31日(土)16:45~18:00 NHK-BS2
酒井さんの音楽講座が先日も開かれました。「コガ・ミュージアム ミュージアム講座 酒井政利のJポップの歩み アーティストクローズアップ編 第9回 岸田敏志」 1月20日(土)14:00~16:20頃まで開かれました。ゲストは、岸田敏志(きしださとし)さんです。1976年デビューして、当時は岸田智志さんでした。岸田さんの曲を18曲かけていて、間に酒井さんと岸田さんがトークをします。岸田さんの代表曲「きみの朝」も1979年のオリジナルと2000年のニューバージョンともに流れました。 岸田さんの歌って、すごく繊細な声で歌います。酒井さんがその声を評してこんな事を言いました。かなり意訳です。 「あなたの声は涙声(なみだごえ)なのがいいんです。日本人は涙声が大好きなんです。仲間由紀恵さんも涙声なんです。彼女の人気も結局、涙声なのが一番大きいです」 酒井さんがこの話をした後、数曲後に「あまりりす」という曲がかかりました。岸田さんの曲ですが、山口百恵さんに提供していて、百恵さんの曲もかかりました。この時「百恵も涙声」と酒井さんは言っていて、涙声の幅はだいぶ広いようです。 聞いていて私が思ったのは。何で「仲間由紀恵」かでした。彼女は、auのCMの中で、歌手をしていますが、歌手ではありません。思いますに、意中の人は別にいたのではないでしょうか。涙声の歌手の名を挙げるのは、岸田さんの前では失礼と思って、仲間さんの名を挙げたのでは。 仲間さんは沖縄出身、ロングヘアーの美女です。まるでシンシアのようです。酒井さんはシンシアを念頭に「涙声」と言ったと思いたいです。
ここ暫く忙しくて携帯から見るのみ、そういえば携帯サイトの表示方法が変わりましたね、何のことかわかりませんでした、久しぶりにPCの前に座って見てみました、いやあーあるところにはあるんですね!、次々と再生して見てました、ソラマメさんが言われますように表情が生き生きしてますね、見たような記憶のある映像もありましたがほとんど始めてみるものばかり、あの時代にビデオデッキを持っていた方はどういった方々なんでしょうか?ビデオデッキなんて物があることすら知りませんでした、なんにしても映像のアップありがとうございました、さすがShigeruさん!私たちとは熱意がちがうのでしょうか?。
早速「愛なき世代」の映像を拝見しました。 実はこの曲、テレビで見た記憶が全くなかったのです。なのでずっと見たいと思っていました。 曲に関しては、「春の予感」が、かなりのヒットを記録して印象深い曲だったのに期待していた 次の曲としては少々物足りない感じで残念でした。できれば引き続き尾崎亜美作品を歌って欲しかったのです。 でも「初めて」見たこの曲の映像のシンシア、そらまめさんのおっしゃるようにとても生き生きしていますね。 前髪が短いのもこの曲だけでしょう。本当に貴重な映像ですが、この時代にビデオを持っていたシンシアファンが羨ましいです。 また、グアムでのドッキリ、凄く可愛い!!ですね。
Shigeruさん、ありがとうございました。 こんな形で「愛なき世代」の映像見るとは思いませんでした。 実は私この「愛なき世代」と「グッバイガール」は、 ずっと封印していた曲なんです。 Shigeruさんのおかげで「愛なき世代」を聞くことが出来ました。 それにしてもシンシア随分生き生きして見えるのは 引退のめどが立ったせいでしょうか?
まだまだ貴重な映像が埋もれているもんですね! アップいただいた皆様ありがとうございます。