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酒井政利のJポップの歩み

 アーティストクローズアップ編

  第7回 特別ゲスト:南沙織

     2006年4月15日(土)14時~16時
     於:古賀政男音楽博物館(コガ・ミュージアム)
       東京都渋谷区上原3-6-12

詳報  (概要
  曲名           作詞      作曲     歌手   発表
01.時には母のない子のように 寺山修司作詞  田中未知作曲 カルメン・マキ 1969年
02.17才          有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1971年
03.17才          有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 森高千里 1989年
04.潮風のメロディ      有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1971年
05.ともだち         有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1972年
06.純潔           有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1972年
07.哀愁のページ       有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1972年
08.傷つく世代        有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1973年
09.魚たちはどこへ      有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1973年
10.色づく街         有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織  1973年
11.人恋しくて        中里綴作詞   田山雅充作曲 南沙織  1975年
12.ひとねむり        落合恵子作詞  筒美京平作曲 南沙織  1975年
13.気がむけば電話して    中里綴作詞   田山雅充作曲 南沙織  1976年
14.青春に恥じないように   荒井由実作詞  川口真作曲  南沙織  1976年
15.哀しい妖精        松本隆作詞   Janis Ian作曲 南沙織  1976年
16.春の予感-I've been mellow 尾崎亜美作詞  尾崎亜美作曲 南沙織  1976年
17.17才-さよならコンサート実況録音盤 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1978年

Jポップの歩み第7回対談報告 投稿者:トナカイ  投稿日:04月19日(水)00時50分19秒
(この報告の性格)
 酒井さんの音楽講座の解説です。曲名リストは「酒井政利のJポップの歩み
第7回報告5」を参照下さい。あちらの曲番に沿って様子を書きます。

 何人かの人とメールして出来るだけ再現しようと思います。酒井さんなり
シンシアなり、この報告の文章は私の作った物ですので、実際とは違うと
思って下さい。文責は全て私にあります。出来るだけ会場の雰囲気を
伝えたいと思います。

 酒井政利のJポップの歩み~アーティストクローズアップ編~ 第7回 南沙織

【01.「時には母のない子のように」寺山修司作詞 田中未知作曲 カルメン・マキ 1969年】
 講座が始まり、酒井さんが下手(舞台に向かって左)より姿を現し、
下手側の椅子に座ります。この講座は全て会話で成り立ち、ボード(黒板)
などは使われません。

 曲をかける時は、酒井さんが「○○をかけて下さい」とか言います。

 進行として、酒井さんとシンシアが話し、曲をかけます。酒井さんは
こんな事を言いました。

 『沢山の方にご来場いただき嬉しいです。桜はほぼ散りましたが、
後で皆さんお待ちかねの特別ゲストが会場に花を添えてくれるでしょう
(あえて名前を言っていません)。

 花と言えば、我々プロデューサーは土壌なんです。土壌に種や木を
植えて、芽を出さない時もありますが、木に大輪の花が咲いて欲しい
と常に願っています。

 プロデューサーとして人との出会いが一番刺激を受けます。今まで
一番刺激的だった方は、劇作家の(故)寺山修司さんでした。

 私はコロムビアやソニーと言ったメジャー系ですが、寺山さんは
アングラ系(反メジャー)なんですね。

 寺山さんは、メジャー系の人は物を作りすぎると言っていました。
食品で言うと、添加物で着色するような物で、味が良くても深みが
無い。同じように作りすぎるのは間違いだ、と言っていました。

 アイドルで言うなら、作り笑顔ではなく生の魅力で勝負したら
どうか、その世代の生き生きとした物で勝負をしたらどうか、
と言われました。

 この考えに、私は頭を殴られたような衝撃を受けました。その
寺山さんと組んだのが「時には母のない子のように」でした。』
(ここで曲がかかります)

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Jポップの歩み第7回対談報告2 投稿者:トナカイ  投稿日:04月19日(水)01時07分19秒
【02.「17才」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1971年】
 『(「時には母のない子のように」が終わって)私にとって思い出深い作品です。こうして
寺山さんと仕事をしている頃(1970年頃)、沖縄から一枚の写真が届きました。

 その写真を見て、寺山さんの言っていた「生々しい生き生きしている人」と直感しました。

 当時の沖縄は外国(米軍治世下)でした。来るのにパスポートがいるんです。沖縄と
連絡を取って、「是非ともお目にかかりたい」と、本人に来日してもらい、羽田空港に
迎えに行きました。

 一目見て、こういう人がこれからのアイドルというか、新しい歌手になるんだな、
と思いました。

 センスが良かったと思いますし、陽に焼けていて、髪が長くて、今で言うと、アイドルと
言うより女子アナウンサー向きというか知的な雰囲気、知性を感じました。

 それが16歳の内間明美さんでした。今は、篠山シンシアさんですが、お呼びしたいと
思います。

 南沙織さん、どうぞ』

 (酒井さんが言うと同時に「17才」がかかり、下手奥からシンシアが登場します。
シンシアは無言で歩いて、酒井さんの向かいの上手側の椅子に座ります。曲はそのまま
かかっています。場内は満場の拍手です。)

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Jポップの歩み第7回対談報告3 投稿者:トナカイ  投稿日:04月19日(水)01時35分40秒
【03.「17才」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 森高千里 1989年】
『本日の特別ゲスト、南沙織さんです。

 Jポップと言うのは、日本の曲に外国の要素を合わせた歌謡曲で(こういう意味の事を
言いました)、その元祖が南沙織さんです。こうして会うのは何年ぶりかな?』

 “えーっと、酒井さんからこのお話をいただいたのは、確か8ヶ月くらい前でした
(その時に会っているという意味らしい)。

 小さな講演で、4~50人の集まりなので来て、と言うので「主婦の集まり
なのかな」と思って軽く引き受けたんです(シンシアはこう解釈したらしい)。”

『だまされた、という事ですか』(場内爆笑)

“「Jポップ・・に出るんですか」と他の人に言われて。「えっ、どうして知ってるん
ですか?」と聞くと、「(ネットに)出てますよ」と言われて、驚いて(ゲストの意味を
そこで知ったらしい)。・・・今日は、頑張ります”

『よろしくお願いします。』

『Jポップの原点の南沙織の曲を聞きながら、南沙織を解剖して行きたいと思います。』
『「17才」はみんな歌いたがる曲です。ここ数年は途絶えていますが、森高千里さんの
「17才」ですね。私の所にリメイクしたいと挨拶に来ました。

 キレイな人ですが、すごく化粧をしていました。そういう時代なんですね。』

『(シンシアに向かって)あなたが初めて歌った時は、正真正銘の16才でしたね。』

“はい。”

『初めて羽田空港に来た時、歌手としてやっていこうと決意した時、どういう気持ちでした?』

“小さい頃の夢に「歌手になりたい」があって、漠然と思っていました。思春期に入って、
少しその夢から離れた時にこの話がありました。私はずっと沖縄にいると思っていたら
(お話があり)、チャレンジ精神というのかな、やってみようと思いました。”

『第一印象で、私は(シンシアが)英語しか話せないと思い込んでいた。それが
アナウンサーが話すような正確な日本語を話して。

 言うことがイエス・ノーかがハッキリしていました。(この辺り、シンシアは何度も
あいづちをうっています)』

『森高さんはこの時、二十歳近くでしたが、どうしても「17才」を歌いたいと言って
いました。筒美さんも有馬さんも、快く承諾してくれて。どう変わったか、ここで聞いて
みましょうか。』

(曲がかかります。初めて最初から聞きましたが、シンシアの「17才」のイントロの
前に、テクノっぽいイントロが付いているんですね)

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Jポップの歩み第7回対談報告4 投稿者:トナカイ  投稿日:04月19日(水)21時46分51秒
【04.「潮風のメロディ」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1971年】
『(終わって)アレンジでこう変わるんですね。原型は残していますが。あなた(シンシア)の
場合、「私は今生きている」に自分の主張が入っていました。録音した時は16歳、デビューして
しばらくしたら17歳の誕生日が来ると言うので、題名を「17才」にしました。

 人間にも旬があり、あなた(シンシア)の声は正真正銘の17歳の声でした。森高さんの声は
もう少し歳が行っている声です。』

『レコーディングの時に有馬さんと話していると、シンシアとの会話から詞のヒントを得ていると
言っていて、それで声と歌詞がぴったりすると言っていました。当時、よく言われたのが
「本人が詞を書いているんじゃないか」と。それくらい歌と声が合っていました。(ここ文は
かなり言葉を加えています)』

“(詞を書くと言われたのか)実は、今回発売のプレミアム・ボックス(Cynthia Premium)の
ために何か書いて欲しいと言われました。酒井さんには言わなかったんですけど。

 私、いつも悩むんです、2・3週間、一ヶ月近く悩んで、「はい、じゃがんばってみます」と
答えて。1週間で22枚書きました。アルバム21枚(1枚に原稿1枚)にもう1枚です。
当時の事を思い出しながら書きました。

 (今の話は初耳で)当時の私がレコード制作に(間接的に)関わっているなんて全く
思いませんでした。”

『「あなたの話からヒントを得ています」と言うと、本音を言わなければいけない。本音は
ファンが一番待っているものです。本音に少し誇張するのがさじ加減で、これがテーマなんです。
(この辺り意味不明)』

『羽田空港であなたに会った時、この子こそ寺山さんが言っていた生き生きとした少女だと
思いました。まるで海の向こうから何かがやってきた、潮風が運んできたようだ、と思いました。』

“それで「潮風のメロディ」ですか。”

『そういう事で、「潮風のメロディ」お願いします。』(曲がかかります)

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Jポップの歩み第7回対談報告5 投稿者:トナカイ  投稿日:04月19日(水)23時21分33秒
【05.「ともだち」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1972年】
『この曲を録音していた時ですが、筒美さんもいて、彼が一番あなたの声に惚れ込んで
いましたね。「シンシアは、自分の作品の言葉を創るんだ」と言っていました。
(酒井さんは筒美さんは言葉を表現とは言わず創ると言っているそうです)』

『英語が話せる(英語的に思考できる)から、こういう日本語になるんでしょうね。』

“分からないんです、そこの所が。”

『リズムに乗せて言葉を創れるというのは、(日本語だけの)我々はダーとしてしまうんですね。
そういう意味で、回りも(作りがいがあると)楽しかったですね。』

“27年前に引退して(それ以降)、ほとんど自分の曲は聞かないですね。運転していて
ラジオから(自分の曲が)流れると、思わず車を止めて聞いてしまうんですけど。
おうちで自分でCDをかける事はあまり無いです。

 何て言うか、そこまでナルシストになれないの。自分の歌に酔えないっていうか。どこか
あら探しをしてしまう。自分の曲のどこかどうなのか、未だに分からない。”

『不思議な発音、不思議な歌い回しですね。』

“デビューした後、よく回りの人に「物まねしないでいいのよ」と言われて、それは気を付けて
いたんです。”

(こんな意味の事をシンシアが言っていました。これは独特の発音が素敵なので直さないでと
回りが言っていたようです。シンシアは、今、酒井さんに言われて、あの時の回りの言葉の意味が
やっと分かった感じでした)

『筒美さんは、「あれだけ言葉を創れる人はいない、出会えない」と言っていましたね。』

『歌手になって、最初の頃は沖縄が恋しかったでしょうね。』

“最初の頃、特に一ヶ月は。”

『最初がホテル住まいでしたね。』

“ホテル住まいでしたし、最初のプロダクションの屋上に行って泣いたり、ホームシックでしたね。
こんな気持ちが(いつか)無くなるのかな、無くなって欲しいなと思うくらい強かったですね。”

『彼女のデビューは、(今から考えると)ウソみたいなんですよね。とにかく、沖縄にこういう
少女がいる、私が会ってみたいと言う、こちらに来る、即決で(デビューが)決まる訳ですね。』

『決まって、もう次の来日の時はレコーディングでしたよね。』

(ここでアクシデント発生。シンシアの服と袖がくっついたみたいです。「潮風のメロディ」が
かかっている最中に、服の飾りに袖がひっかかって、取れなくなってしまったようです)

“ちょっと取れなくなっちゃって。”

『とにかくレコーディングを急いで(年末の賞レースに間に合わせる意味のあると思います)、
デビューした時は、空港に着いてそのままテレビ局行きでしたよ。もうテレビを何本も掛け持って。』

“あの時の私は、ものすごく度胸があって。どんどん度胸が無くなっていく。(後半は今の事を
言っているよう)”

『度胸というより10代の若さでしょう。ともかくすごく多忙で。ふと我に返るとさみしいと。』

“さみしかったですね。ホテル住まいだったし。”

『ホテル住まいが一番安心と考えたんですね。ルームサービスとかあるし。その頃、「友達がいたら」と
盛んに言ってたんですね。で、「ともだち」という企画になった。』

“あっ、そうなんですか。”

『全部あなたの成長記録なんです。その後の郷ひろみさんや山口百恵さんら、全部あなたの企画を
参照にしているの。成長の記録はファンも一緒に自分も共感を持てるという、一緒に歩んで、一緒に
育てるという愛情を持てるものですね。』

“デビューから一年、この一年の私は、ものすごく多感でしたし、ある意味反抗期で、南沙織と
いう名前が先に行ってしまうのがイヤで。もともと芸人ではないので。

 ずっと悩んでいた時に、酒井さんが当時、とても厳しくて恐い存在でいたから、言葉は悪いんです
けど、「こんちくしょう」ていう反発があって、それがよかったと思うんです。

 全ての原点だと思います。私の。色んな事に対して目覚めた。狭い視野だった私が大きく色んな事を
考える。

 まだその時期は(将来の事など)見えないんですけど、考える、自分をすごく見つめていけたので。
酒井さんのような恐い存在がいた事を、今思うと、ものすごく感謝しています。これで許して下さい。”

『私の10代と比べて完全に負けていますね。では「ともだち」を聞いていましょう。』

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Jポップの歩み第7回対談報告6 投稿者:トナカイ  投稿日:04月19日(水)23時58分26秒
【06.「純潔」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1972年】
『ここまでは、全て有馬・筒美作品ですが、』

“ちょっと失礼します。”

(シンシアは引っかかった所がどうしても取れなくて、舞台から一度下がっています)

『有馬さんは、彼女にとって母親のような存在だったんです。彼女の言う一言一言を聞いて、
アドバイスしてくれて。』

“ごめんなさい”(とシンシアが戻ってきました)

『大丈夫ですか。』

“失礼しました。”

『いつもこういうにぎやかな所もあるんですか。』

“どちらかと言うとおっちょこちょいなんです。”

『そんなことないですよ。ともかく、「主張」という事では、アイドルで主張をしたのはあなたが
第一号です。アイドルって、言われたままに行動するというのか。お人形のようになるんですよね。

 アイドルで意思というものを感じた、主張を感じた第一号だと思います。』

『三人娘、ほとんど同期ですよね。小柳ルミ子さんは一期上かな。』

“ちょっと先輩です。”

『小柳ルミ子さんと天地真理さんと三人娘と言われて。あなたの人気が沸騰するにつれて、マスコミの
バッシングが、スキャンダルが起こったんですね。』

『マスコミというのは面白い物で。あれだけ人気があるのは、何か裏がある、と思うんですね。答えを
見つけようとするんですね。ですから皆さん、マスコミに引っかかっちゃだめですよ。今は政治の世界で
スキャンダルが起こっていますね。マスコミがよく(話を)作っているなと思いますね。』

『彼女のスキャンダルはすごかったですね。今は、個人情報を保護する方があったりしますが、逆に
個人情報保護法のような物が出てくると、こう言っては問題ですが、スターが生まれなくなると思いますね。

 スキャンダルがあった方が、ファンも心配するし、それが勢いになっていく(こんな事を言っています)。
私は、マスコミ(の姿勢)には反発していましたが、逆に大いに活用していこうとも思っていました。

 南沙織にどうしてこうスキャンダルが出るんだろうか、そうだと考えたのが、次にお聞きいただく
「純潔」だったんですね。』

『「純潔」というのは、今はどうか知りませんが(今もと思いますが)、当時は死語だったんですね。
古いと、第一乙女なんて絶滅したんだと。でも私は、これが答えになると思ったんですね。

 そして(発売されると)大変な反響でした。「純潔」を聞いてみましょう。もう引っかかってない
ですね(爆笑)。』

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Jポップの歩み第7回対談報告7 投稿者:トナカイ  投稿日:04月20日(木)22時33分44秒
【07.「哀愁のページ」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1972年】
『(「純潔」は)南沙織を真剣に見守ってきた有馬・筒美コンビのこれは結晶だと思うんですね。』

“私、この曲を初めていただいた時に、「辞める、辞めない」とすごく悩んでいた時に、この曲を
聞いた時に、「あー、歌いたい」と思ったんです。

 私は、タイトルの意味を分からないので。でも(言葉の)響きが私にとって、とても新鮮でした。”

『筒美さんは、あなたの歌いぷりをとても吟味して、サウンドにとけ込ましたようですね。』

“(今聞くと)声が大人っぽいですね。「17才」の時より。”

『今言ってましたように、彼女はデビューして、夏でしたよね。その年の暮れには「辞めたい」、
翌年も「辞めたい」。

 でもよく考えてみると、「辞めたい」という時ほど真剣さを保っているんですよね。脱皮しようと
するんですね、マンネリになっていく所から。

 (72年頃は)「辞めたい、辞めたい」が口癖でしたよね。芸能界が合わなかったのかな。』

“(少し笑いながら)合わなかったですね。こういう性格なので。本来はすごくあがり性で、
どっちかというと、(私は)おうちの中ではものすごく明るい人なんです。

 よく母も、「何でおうちの中ではこんなに明るいのに、外ではこんなに暗いの?」って。”

『暗くはなかたですよ。さっき「(私は)芸人ではない」と言っていましたが、芸能関係な雰囲気には
抵抗があったんですね。

 そういうのが発言とかファッションに出ていましたね。(服装が)ちょっと女子大生みたい
でしたね。(いかにも芸能界な服は着ないという意味らしい)』

“最初はそう。最後は、どんどん(服装が)地味になっていきましたね。”

『「純潔」という意味は全く分からないで歌っていたんだ。』

“「純潔」って「ピュア」、気持ちのピュアさな感じでとらえていて歌っていたんですね。でも
(この曲は)アレンジや詩が大好きでした。

 どちらかと言うと、「暗い歌」がどんどん年を取るとつれて増えて。でも、私個人は本当は、
ものすごく明るい曲が好きでしたね。

 何であの時はあんなに暗い曲が、酒井さんにとって暗くなっちゃんたのは、私のせい?”

『そんな事はないですよ。明るい暗いと言えば、あなたは明るい人ですよ。音色も明るい、
雰囲気も明るい、太陽の下で生きてきた人です。

 でも芸能界で受けるには、意外性ってのがあるんですね。明るい人なんだけど、ややさみしい歌を
歌った時、光と影では影の方が濃い(=受ける)という事があるんですね。

 それが言えると思うんです。あなたがさみしそうな歌を歌う時に、(雰囲気が)伝わるんですよ。』

『そんな光と影を活用した「哀愁のページ」を聞いて下さい。これは僕が一番好きな曲なんですね。』
(かかった曲はシングルカットでなくLPアルバムの方です)

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Jポップの歩み第7回対談報告8 投稿者:トナカイ  投稿日:04月20日(木)22時45分50秒
【08.「傷つく世代」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1973年】
『南沙織の影の部分というか、ちょっと深い所を出した作品だったと思います。あまり好きでは
なかったのかな?』

“いや好きでした。でも、これはアルバムの方ですね?”

『アルバムです。この当時は、(故)上村一夫さんの「同棲時代」というマンガというか劇画が、
若い人の間に大ヒットしていたんです。

 (このタイトルのように)言葉が新しい、それでいて日本語がきれいだ、こういう所に南沙織が
行くべきだ、と考えたのが、次の「傷つく世代」なんですね。

 今になって種明かししているんですが、その「傷つく世代」を聞いてみましょうか。』
(ここで曲がかかります。前半終了の予定時間が迫っているので、ここはシンシアは相づちのみで、
踏み込んだ話はしていません。)

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Jポップの歩み第7回対談報告9 投稿者:トナカイ  投稿日:04月20日(木)23時35分50秒
【09.「魚たちはどこへ」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1973年】
『この歌も大変反響がありました。どうでしたか。この歌を歌っていた頃の気持ちは?』

“この曲はアレンジがとても好きで、今聞いてて思い出したんですけど。筒美先生が(レコーディングで)
私が歌うのを聞いてて、うなずいてニコッと笑って。筒美先生、気に入ってたんじゃないかしら。”

『そう、筒美先生はとにかく、あなたの作品だとご機嫌になりましたね。』

“この曲に関しては、(筒美先生に)直されていないですね。こうしなさいと言われていません。
歌いたいようにどうぞな感じで。

 出来上がった時に当時、高校時代のお友達の家で、出来たばかりのテープを持って行ってみんなで
聞いて、「いい、いい」って大騒ぎした事があって。今思い出しました。”

『今はこうして言っていますが、あの当時は主張が強くて、どちらかというと攻撃型でしたよね。』

“そうでしたか?”

『歌う時に前向いて歌うんだ、な感じで、主張が全面に出ていました。』(な意味の事を言っています。)』

“レコーディング大好きでした。”

『あの当時は(発売)枚数が多かったです。シングルは出す、アルバムは出す。年に4枚はシングルを
出して、アルバムも同数でしたからね。』

“今はそういう時代じゃないんですか?”

『今は数字が重視されるんです。年に一枚ぐらい売って。(積み重ねた売り上げで)ミリオンセラーに
見せるとか。そういう数字にとらわれて、人の気持ちが(曲に)入ってこないのが多いですね。』

“今回、(Cynthia Premiumでコラムを書くために)自分のアルバムをチェックしていて、6月1日に
デビューしてるんですけど、4ヶ月後にアルバム(=17才)を出していて。更にその2ヶ月後に
またアルバム(=潮風のメロディ)を出していて、すごいスケジュール。”

“今思うと、あたためてあたためて、こだわって・・・、出したかったな。”

『そうですね。これからやるのはどう?』

“いえ、いえ。”

『あなたの好きな作品ですよね、「魚たちはどこへ」。これはどういう思い出があるんですか。』

“短い曲なんですよ。明るくって。(歌詞に)強さがある。”

『「魚たちはどこへ」も、あなたじゃなきゃ歌えないですね。』

“私も聞いてみたいから、誰か歌ってくれないかなと思うんですよ。”

『今じゃ無理ですよ。』

“やっぱり、童謡みたいなので。”

『童謡みたいというより、テーマが難しいですね。「魚」にかけて人間の気持ちを歌うからね。まあ、
聞いてみましょう。』

(曲がかかります。この曲はリフレインが無いので、フルコーラスかかりました。)

『「純潔」とか「傷つく世代」とは対照的に、動から静に変わっている曲ですね。これはあなたが
好き曲というのは、今聞いても変わらない?』

“こんなに大人っぽい声で歌っていたんだ。”

『あなたの声は十代から熟していたんです。それは(観客の)皆さんも感じていると思います。
熟していて言葉を突くからたまらないんですよ。

 だから、どっちかと言えばあなたの系譜で、松田聖子さんがデビューの時に、あなたのレコードは
全部聞いていた、ですよね。

 南沙織の系譜を継承しているのが、松田聖子かもしれません。いかにも言葉を突くんです。それに
続けて明るいというイメージですしね。』

『この曲はテレビなどでは歌わなかったですか。』

“一度も歌いませんでした。コンサートだけで。”

『コンサートだけですね。では、ここで10分間の休憩をいただきます。』

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Jポップの歩み第7回対談報告10 投稿者:トナカイ  投稿日:04月20日(木)23時52分14秒
【10.「色づく街」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1973年】
『第2部と言う事で。皆さん、お待ちかねの彼女の話が少なくて、余計なのが色々言っていて。
それはもう感じているのですが。』

『ホントにあなたは結婚して幸せそうだし、それでいて変わらないですね。何か今日の事は、篠山
(紀信)さんには内緒らしいんですよ。』

“土曜日で家にいて、でも朝食もちゃんと出しましたし、「君はどこに行くんだ?」って。黙って
いて、「美容院行くんだ、ハイキングかも」って。お洋服を袋に詰めて、途中で着替えて(少し笑い
転げながら言っていてかわいいです)。”

『前に篠山さんにね、「ホントに彼女は変わらないですね」って言ったら。「酒井さん、お金が
かかってるんだよ」「金がかかってるってどういう事?」と聞いたら「特別な冷凍庫に入れている
だよ」って。』

“そんな事ないですよ。こき使われています。”

『今日は「Jポップの歩み」という事で漫才じゃなないんで。』(爆笑)

『そうですね、最初、彼女の代表作である「色づく街」を聞いていただいて。これも有馬・筒美作品
です。』(曲がかかります。)

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Jポップの歩み第7回対談報告11 投稿者:トナカイ  投稿日:04月25日(火)18時14分46秒
【11.「人恋しくて」 中里綴作詞 田山雅充作曲 南沙織 1975年】
『「色づく街」聞いていただきました。これは足を動かしたり、手で振りをしたりと、
昨日の事のように思い出しましたね。』

“動きが全くない歌手でした。”(笑)

『今よくボーカリストという分類がありますが、あなたの場合、ボーカリストでもあるけど、
見た目は、ビジュアル的には、アイドルというゾーンに入る訳ですね。でもそれが楽しかったんですね。』

“自分がアイドルってあんまり意識した事が無かったんですけど。今回(プレミアムボックス用に原稿を)
色々書いていて、やっぱり、私はアイドルだったって、再認識しました。昔、今は違うけど。”

『アイドルって、日本では美空ひばりさんがアイドルって言われました。』

“あ、そうなんですか。”

『向こうではプレスリーも呼ばれたし、アイドルって大きな規模だったんですね。ところが、Jポップの
歴史の中で、アイドルって簡単に作れるという制作者の怠慢でもあるんですが、テレビ局もそう考えたんだと
思う。

 「おニャン子クラブ」と言いまして、かわいくて近所にいそうな、笑顔がかわいくて、歌は下手でも
いいと、すごく沢山出したんです。あれからアイドルというものが蔑視されるようになった。

 「何だアイドルってこの程度でいいのか」と価値を下げていったのです。

 あなたの頃は歌もしっかり歌っていたし、天地真里さんもややクラシック畑でしたが、音を出していたと
思うんですよね。しっかり歌っていました。

 私ばっかりしゃべっているんだけど、』

“(ちょっとふざけて)私もしゃべりたいんですけど”(爆笑)

“でも何をしゃべったらいいのか、わからなくて。”

『じゃ、ちょっと考える時間をあげます。「色づく街」は、大変言葉、作詞ですね、にこだわった歌です。

 何故「色」にこだわったかと言うと、「セブンティーン」という雑誌、今は無いかもしれないけど、
そこに相談コーナーがあって。

 今は写真がカラーで載るというのは当たり前の事なんだけど、その当時(73年)は転換期だったん
ですよね。白黒写真もあればカラーもある。

 質問ですが、「どうして写真が白黒で撮れるんですか?」という中学生の質問がありました。

 今の若い人はカラーに、色ってものにものすごくこだわっているんだ。(次の)企画に色って
ものを入れようとなったんです。

 作詞の有馬さんが色と言うことで、「枯れ葉」これを「青い枯れ葉」と書いたんですね。

 そしたら音楽評論家が叩いたんですよ。「枯れ葉には色はない」と。そんなバカなことは
無いんですね。道を歩いていても、青いの落ちてますものね。

 有馬さんが色を見事に表現してくれました。その新しさとあなたの歌が合わさって、本当の
Jポップになったんですね。今聞けば当たり前のようなんですが。』

“いい曲ですよね。”

『これ、思い出深いんじゃないんですか。』

“はい、(91年の)紅白、久しぶりに歌ったんです。この曲。”

『この歌を押したんですね。』

“NHKは(提示した曲は)「17才」でしたよ。”

『あれは2曲と言ったんです。「17才」と。』

“あの時も見事にだまされたんです。”

“2曲って約束で「ハイ」と。確かNHKが発表する2時間くらい前に、酒井さんに「じゃ出ます」って
私は言ったんです。その時は2曲だったんです。お約束は。

 発表した後、1曲になって。「じゃあヤダ」って言えなくなっちゃって。”

『色々こういう風にまっすぐな人なんです。

 じゃあ、続いて聞いてみましょう。大きなポイントになりました「人恋しくて」。

 この辺から作家がちょっと、時代が変わっていくんです。有馬さんの作詞から(故)中里綴さん作詞、
筒美さんから田山さんの作曲に。

 「人恋しくて」、あなた、これで歌唱賞もらったんじゃないですか。』

“そうです、ハイ。”

『覚えてない?』

“はい。みんな笑いますけど。もういただきました。”

『この当時の歌唱賞ってすごい価値があったんです。レコード大賞の新人賞にはノミネートでしょう、
それから歌唱賞。大変順風なんですね。「人恋しくて」聞いていただきます。』

-2006.4.27(THU)訂正-
 前の方の『ボーカリストではないけど、』を『ボーカリストでもあるけど、』と訂正します。

 「ボーカリスト」という言葉がよくわからないのですが、酒井さんはアイドルと対比して使っている
ようです。

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Jポップの歩み第7回対談報告12 投稿者:トナカイ  投稿日:04月25日(火)20時20分57秒
【12.「ひとねむり」 落合恵子作詞  筒美京平作曲 南沙織 1975年】
『新しい作家との出会いがあって、一つの(ターニング)ポイントとなった「人恋しくて」。
どうですか、これも思い出深いんじゃないんですか。』

“初めて違う方の作曲だったので。”

『田山さんね。』

“最初、(筒美)京平先生と有馬先生から離れると聞いた時に、「あーっ」と思ったんですけど。
この曲を聞いた時に、「新しい出会いは大切なんだな」と実感しましたね。”

『この曲なんか、例えばあなたでなかったら、普通の歌謡曲になってしまうんですよね。あなたの言葉の
突きによって、何か違うものになっていますね。そういう融合があったと思うんですよ。

 だから(転機は)作家との出会いから始まるんですよね。』

“でも、(私は)与えられて歌っていた感じが多いんであったので、今回、改めて聞いて、「えっ、
この人に書いてもらっていたの。えっ、この人がアレンジしてたの」って。結構、現役の時は全然
意識していませんでしたね。

 曲が与えてくれるような、そういう直感的なものだけを、自分で見て把握して歌っていた。誰の作品って
いうのは、ほとんど気にしていませんでした。”

『それほどあなたとしても、いつかこの世界を去ろう去ろうと、ちょっと客観的だったかな。』

“曲が来た時に、その曲が与えてくれるインスピレーション、そういうのがものすごく私にとって
大切だったの。誰が書いたよりも。

 いい曲と思ったらすぐ(その曲の世界に)入れたし、「はぁ(だめ)」と思うと、千回歌っても
入れなかったり。そういうとこはわがままがはっきり出る人だったんだな、って最近思う。”

『今度ソニーからね、特別CD(=Cynthia Premium)が出るじゃないですか。その中にライナー
ノート書いたって、さっき話してましたが、ホント(シンシアは)文章もうまいんですよ。』

“22枚”

『すごく考えて、「はー」と感じるセンテンスがつながる、いい文章を書くと思う。』

“決めるとわーと書けちゃうんですけど、そうでないと全然、悩んで悩んで、もう3日も、その事しか
頭になかったです。どっちかというと没頭するタイプなので、中途半端が嫌いで、・・・酒井さんの
ようには書けないです。”

『長く活動していて、もし引退していなかったら、今頃自分で詩を書いて歌っていたかもしれない。』

“引退してなかったら・・・。今回、こういう風な形で(ファンの前に)出るっていう事で、芸能活動に
出るって事で。ネットで「こういうのが流れてますよ」って、ネットサーフィンで、(友達が情報を)
送ってきて。

 私は、インターネットで(自分関係のサイトなどは)見たことないんです。見ないようにしています。

 そしたらお友達が送ってきたんで、(メールを)見たんです。そしたら「引退したと思ったら、
なんだ現役じゃん」って書いてあって。「えー、あたしって、現役なのかしら」

 古い曲が発売される事ってのは、やっぱり、現役になるのかなぁ。・・・引退しているつもりなんです
けれど。”

『でも、それだけ惜しまれるから、どんどん(CDを)出していくのはいい事ですよ。

 南沙織という歌は、南沙織という作品は商品。あなたとはかけ離れていて人格は別なんです。』

“そういう風に思っています。”

『それだけ歌い継がれてCDになったBOXになったなんて素晴らしい事ですよ。出したくても
出せない人がいっぱいいるんだから。

 新しい作品との出会い、今度は落合恵子さん。皆さん記憶にあるでしょうけど、文化放送で
ディスクジョッキーで、非常に高い人気のあった(愛称はレモンちゃん)。落合恵子さんに
書いてもらった「ひとねむり」聞いてみましょう。』

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Jポップの歩み第7回対談報告13 投稿者:トナカイ  投稿日:04月26日(水)08時12分15秒
【13.「気がむけば電話して」 中里綴作詞 田山雅充作曲 南沙織 1976年】
『落合恵子さんと出会った「ひとねむり」です。考えるとあなたは、作家が、南沙織と組みたいと
いう方が多かったですよね。』

『考えてみれば、(井上)陽水さん』

“はい”

『(吉田)拓郎さん』

“はい”

『(シングル曲の)「シンシア」を出したのは拓郎さんでしたよね。』

“拓郎さんです。”

『あなたがずっと(やめないで)続けていたとしたら、陽水さん、拓郎さんが出てくる時期ですよね
(有名になって売れてくる時期に意味らしい)。

 皆さんが作品を(シンシアに)書きたいとなったでしょうね。陽水さんや拓郎さんと交流はあったの?』

“えー、主人が仲いいです。”

『あなたの事聞いてるんです。あなたと親しかったの?』

“現役当時?”

『そうそう』

“拓郎さんとは、どちらかと言うと、喧嘩が多かったです。会うたんびに喧嘩していました。

 私に歌のアドバイスをくれて・・・。拓郎さんは、きっと今では覚えていないでしょうけど、当時は、
(歌い方が)「ここは良くないんじゃない」ていうような言い方していました。”

『ともかく、拓郎さんとか陽水さんは、ものすごくあなたを(アーティストとして)意識していたと
思うんです。我々(スタッフの)男の目からもわかりましたよ。』

“うーん”

『彼女は、やめてすぐですよね、結婚したのは。1年くらいですよね。』

“11ヶ月、結婚するまでに。やめて11ヶ月で結婚しました。”

『(結婚前に食事をして)「今度結婚するんです」「誰と?」って聞いたら。もちろん極秘なんですけど、
言わないんですね。

 ちょっとこう、髪の毛の形を(両手で髪を鳥の巣状にして)「こういう人です」(爆笑)

 私は井上陽水さんかと(爆笑)。

 陽水さんじゃなかった。私は勘が悪いんですね。見事に外れました。』

“それなりに引退したんですね。引退発表した後に、篠山さんから食事に誘われたんです。それが
きっかけですね。”

『それはよくわかる。それが篠山さんの大きさです。あなたが現役だった頃、やめてなければ、
(結婚の)申し込みは絶対しなかったと思う。

 (紀信さんも)アーティストなんです。自分も制作サイド側にいて、(仲間という)信念があったと
思う。

 やめたと言うので、1年経って、11ヶ月、申し込んだんだと思う。』

“結婚は、母にはすぐ言ったんです。かっこいい事ばっかり言って、引退発表したので、その後に
恋に落ちちゃって、「わぁ(どうしよう)」と思って。

 自分の言葉に責任があるから、「お互いに結婚(の話題)はタブーにしましょう」ていう風に
(母と)話してて、それで何となくおつきあいしていったんです。

 母に伝えたら、母は「自分の年考えたら、好きにすれば」と言ったんですが、母は(実は)結婚に
反対でした。「好きなようにすれば」と言いながらも。

 でも、母にとって引退して結婚して、というよりも。母は自分が普通の女性として生きてきたので、
自分の・・・、今自分が親になって分かるんですけど、自分が歩んできた普通の女の生活を、この娘は
しなくてもいいんじゃないか、っていう気持ちもあったようです。

 母は飲めないお酒を、その頃から飲むようになったんですね。結局、体を壊すんですけど。言え
なかったけれど、母にとっては、よほど引退も結婚も辛かったんじゃないかな。

 私は、サラってしてるんで、母はちょっと苦労してきた事もあって、娘には違う道を歩んで欲しいと。”

『篠山紀信さんというと、大アーティストですから。そういう意味で親心で、すごく苦労が多いでは
(と思ったのでは)。』

“まあ、それもあったでしょうね。”

『でも、(夫婦の仲は)うまく行ってますよね。』

“はい、がんばってます。”

『じゃあ、ここで次の曲を。「気がむけば電話して」お聞き下さい。』

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Jポップの歩み第7回対談報告14 投稿者:トナカイ  投稿日:04月26日(水)11時38分48秒
【14.「青春に恥じないように」 荒井由実作詞 川口真作曲 南沙織 1976年】
『「ふりむけば電話して」でした(酒井さん、B面の「ふりむいた朝」と混同している)。

『こういう作品、聞いていただいておわかりだと思うのですが、私が彼女の性格をずっと見つづけて、
一番のテーマは、歌の題材、その根底には・・・(ちょっと考えている)。

 この南沙織って女性は、女性というか当時は女の子な感じがしたんですが、珍しく「母性愛」が
強いんですね。母性本能と言うか。

 今の結婚の話なんて聞けば、「やっぱり、そうだったんだ」と。母性愛が強いんですね。

 母性愛を持っているというのか。人を今癒すという言葉がありますが、そうでなく、人を包むと
言うか。だからテーマはいつも、失恋していても相手を包むとか、寂しくなっても相手を包んでいく。
そこにテーマを持っていってたんですね。

 その母性愛というのが、一番の彼女のテーマだったんです。』

『母性愛に対する今の時代と言うのは、そうですね、彼女の跡を継いでいた松田聖子さんとか、
中森明菜さん、このへんを見ていると、母性愛がまるで無い。

 どっちかと言うと(観客が笑っているので)いや、これは時代の流れでもあるんですね。では何が
あるかと言うと「自己愛」があるんですね。

 まず自分がある、子供はさて置いても自分、仕事よりも自分なんですね。』

『今の話(シンシアの結婚話)を聞いて、ふっと思いました。自己主張が強くて、言いたい事は
しっかり言うんですが、根底は母性愛が強いんですね。

 いつもスタッフの間にも、すごく言いたい事を、ちゃんと自分で包んで押さえていましたね。

“そうですね、自己主張が激しい、割と持っている人って思われがちですけど。言わなきゃ
いけない事は言うけど、本質的には、どっちかというと、言わない人のような気がするんですね。”

『相手を思いやる心があるんですね。』

“相手の気持ちが、その、何て言うのかな、気になるんです。自分の気持ちよりも。どんどん変わっていった。

 16・7の時は、自分中心だったと思うんですけど。回りが見えてくるとなると、自分よりも
相手かな、人の気持ちがとても気になるんです。

 どうしてこうなんだろう。どうしてスパッと行けないのかな、昔の自分はもっと何かスパッと
行けたのにな、それはよく思いましたね。

 でも、どうしても(自己愛的な考えは)無理ですね。”

『それだけ年を重ねているという事ですよ。

 あなた、ホントにお子さん産んでいるの?

 全然見えない。さっきから控え室でも』

“今日は頑張っています。今日は・・・大変だったんです。いつもなら黒っぽい服なのに、珍しく、
何十年ぶりにこういう白っぽいの着て、(鏡を見てか)「いやー、まいったな」って。”

『ほんとに話していても、変わりがなくて、すごいと思う。』

“酒井さんより恐い子供がいます。子供って見てますからね。今でも主人に何か注意される事より、
子供が、もうバサッと切ってくるので、グサッと(きます)。”

『次はまた作家との出会いで。ユーミンですね。その作品を聞いていただきます。「青春に恥じないように」』

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Jポップの歩み第7回対談報告15 投稿者:トナカイ  投稿日:04月26日(水)13時12分17秒
【15.「哀しい妖精」 松本隆作詞  Janis Ian作曲 南沙織 1976年】
『作詞は話題のユーミンです。その出会いの作品です。この時に確かユーミンが電話でね、
不思議な事を言ったんです。

 「南沙織さんが歌うと、歌が広がるんですね」

 そういう言い方ってあるんだなと思いました。元々、詞が出来た、曲が出来たで、大体その60点、
70点、点数でなくて6割から7割のものがあるのですね。

 それを9割にする人と5割に下げる人、歌を縮める人、広げる人がいるんですが。ヒット性のある人は、
広げていくんですね。作家が思ったものを、6合目から8合目に持っていくという。そういう意味で、
広げる人は、すごく印象に残っていますね。

 ユーミンに会った事は会ったかな。スタジオで?』

“ご飯を一緒で”

『どんなお話をしたんですか?』

“その時、(井上)陽水さんも一緒でした。主人と一緒に四人で。”
『それでは最近でしょう?』

“ううん、もう私は引退していて。”

『ああ、なるほど』

“きつかったです。現役のアーティストや何かを作っている人とは。主婦になってしまっている
私とは。ちょっと、「あー、この席に居たくなかったかな」って思いましたね。”
『ユーミンも結婚していたし、クリエーターとしていたんでしょう。』

“クリエーター(この場合はシンシア以外の3人)の中に主婦として入ると、うーん、何て言うん
ですかね・・・。”

『クリエーターってとんがっていますからね。』

“そうですね、何かこう、結婚をして、子供を産んで、どーんと座っている、ただの主婦って事が、
あの時ほど痛かった事は無いですね。

 みんなはバリバリに作品作っている、じゃないですか。主人もそうだし。「これでいいのかなぁ」
って思って。”

『あなたは欲張りですよ。ユーミンだって子供という作品を作りたかったんですよ。』

“あぁ”

『ねえ、もう作れないものね。』(笑)

“私、(次の言葉聞いて)もうしゃべれなくなっちゃて。「子供作っちゃうと、それが最高の作品に
なっちゃうのよね」と。そこでは私、もう何も言えなくなっちゃって。そうかなぁって。

 「女性は子供産んでしまうと、それが最高の作品になってしまう」みたいな事言われて。
ちょっと何かすごく(ショックでした)。”

『とんがってたんだな。』

“でも鋭いです、すごく。ある意味では、女性ってそういう母性本能を持っていると思うのよね。
だから本当に本能的なもので、正しい事を彼女に突つかれていたんで。

 それで変な話、歌を歌うって事は、どれだけ歌ったとかどれだけ売れたとか、そういう事じゃ
なくて。何かを作って残すという作業は、やっぱり素晴らしい訳じゃない。

 やはり、もうやめていたので、引退して私は普通の主婦と納得して生きていたので、そういう風に
言われた時に、「私は歌っていた時に、どれほど一生懸命だったんだろう」と。がむしゃらで
一生懸命だったんだけど、でも、何をどの作品を、本当に残せたのか、というか、ちょっと
考えさせられたんです。

 でも、ちょっときつかったです。その時は。”

『そうだけど、ユーミンとしても、(子供という)作品を作れなかったという気持ちはあるんですよ。

“そうですねぇ”

『人間って不思議なものなんですよ。自分が一番気にしている事を、相手にもかけると思うんですよ。
これはよく日常会話の中でも、注意して欲しい。

 と言うのは、例えばどう言うのかな、年を取ると言うことを、すごくまあ考え込んでいるとうか、
自分が老け込んだと考え込んでいる人は、結構多いですね。

 どんどん年を重ねていく事は良い事ですが、年を取ることが老けた事が辛いと思っている人に限って、
(話す)相手に「あなた老けましたね」って言ったりするんですよ。

“えぇ!”(ビックリして)

『そういうものなんです。でも待ってる答えがあるんですね。「あなたはお若い(な意味の)」と
言われたいために、そういう会話をするんです。

 ユーミンの言葉は、そういう意味ではないのですが、彼女の辛さが感じられます。』

“勿論、でも一貫して・・・、それって20年以上前の話ですから、私が長男産んで、彼女も
若かったし、まあいろんな考えがあるし。

 まあ、私はこういう風で、彼女があんな風に生きている、と今は思うんです。”

『あなたと今日ね、こうしてお話ししてきて、南沙織さん、今は篠山シンシアさんですけど、
「出会い運」が強いんだな、と。

 運が強いんです。人間って出会い頭が勝負なんです。その出会い運が強いんだと思う。

 デビューして、そして今日もいらっしゃるけど(客席見ながら)、こうしてファンにも
恵まれて、おまけにねぇ、すごいパートナーを得たんだから。お子さんもいて、贅沢ですね。』

“いえ、酒井さんに出会ったのが。”

『ちょっと贅沢病にかかっていますよ。』

“そんな事ないですよ。”

『話していると時間がどんどん無くなっていきますが。「哀しい妖精」を聞いてみましょうか。
「哀しい妖精」をお願いします。』

-2006.4.27(THU)	訂正-
 「南沙織さんの歌って、??なんですね。』(?の部分がどうしても分かりません)

 最初上記のように書きましたら、何人かの方がメールをくれました。一番合っているだろう
表現に変えました。「南沙織さんが歌うと、歌が広がるんですね」

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Jポップの歩み第7回対談報告16 投稿者:トナカイ  投稿日:04月26日(水)14時55分7秒
【16.「春の予感-I've been mellow」 尾崎亜美作詞 尾崎亜美作曲 南沙織 1978年】
『この曲もいいですね。これも思い出深いんじゃないですか。ジャニス・イアンに会ったことは?』』

“えぇ、レッスンの時です。とてもさっぱりした人でした。”

『この「哀しい妖精」の中には、あなたの原点がすごく入っていますね。』

“そうですね。一番私らしいのかな、曲として。そう思います。

 この間もちょっとおうちで、「シンシア・メモリーズ(Cynthia Memories)」を聞いていて、私は、
ほとんど自分のCD持っていなくって。その中の「哀しい妖精」を聞いていた時に、子供が
(付属のミニアルバムを見たのか)「これだあれ?」って、「お母さんよ」(笑)、「(驚いたか)
ざまあみろ」みたいで。夜中じゅう聞いていました。”

『とにかく(曲が)飽きないというか。』

“そうですね、とにかく古さを感じない。”

『いい歌は古くならない。』

“そうですね。”

『古くなるのは歌詞やテーマがね、片寄っているからで。(この曲は)普遍的な言葉でずーと
歌い継がれているから。』

“後半の私の全てを表している曲じゃないかな、と思うんですね。”

『もう一つ、クリーンヒットになった「春の予感」。これを聞いてみましょうか。これは化粧品のCMの。』

“はい、資生堂です。”

『では「春の予感」』

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Jポップの歩み第7回対談報告17 投稿者:トナカイ  投稿日:04月26日(水)15時53分28秒
【17.「17才-さよならコンサート実況録音盤」 有馬三恵子作詞 筒美京平作曲 南沙織 1978年】
『メロウな雰囲気で「春の予感」でした。いよいよ時間も終わりになってきて、是非皆さんに(一言)。』

“遠い所を、はるばる北海道から宮崎から、いらしていただき、ありがとうございます。

 27年ぶりですけど、まあこういう事は、もうきっと無いと思いますが・・・、

 がんばって生きていきます。元気なおばあちゃんになっていきます。

 みんなもいつまでも元気でいて下さい。(拍手)”

『さよならシンシア』というライブ盤より、もう一度ライブ盤の「17才」を聞いていただいて、
今日はお開きとします。

 (シンシアを見ながら)もう一度17歳に戻るんですよ。

 ホントにありがとうございました。ではお願いします。」

(「17才」がかかり、会場もこの時は手拍子が鳴り響きました。演奏終了後、ファンからシンシアと
酒井さんに花束が贈られ、今日の講座は終わりました。)

 シンシア、酒井さん、スタッフの方に感謝します。

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